『青白い炎』ナボコフ 富士川義之訳

映画ブレードランナー2049で、人造人間の感情があるかテストするシーンで読み上げさせられる言葉は、この小説の引用だそうなんで読もうかなと思ってたんですが、岩波文庫の分厚いやつ(580p↑)って気合が必要なのでなかなか手がつかず、電車に104分×2っていう機会に持っていくことで、読みはじめられました。環境って大事。

珍味というか通好みというか、悪食というか、小説読みまくってる人だと変わった風味で面白いと、思えるんじゃないかと…。定型を崩すっていうパロディ的なとこあるんで、飽食した人向け。これわざとこのテイストで作られてるっていうのを俯瞰して楽しめないとこの、いやわかってても厚さがキツイんですが、でもこの分量が無いとこの面白さにならないんで、がんばってよかったって思える後半の加速度と結末。

ブレードランナー2049に直接関係する引用は以下

自分でも言えないのだが―自分が境界を越えたということがわかったのだ。わたしの愛していたものすべたが失われたが
大動脈はその悲しみを心臓に伝えることはできなかった。
ゴム毬のような太陽がぴくぴく動き沈んだ。
そして血のようにどす黒い虚無が紡ぎはじめた
一個の主要細胞内で連結した細胞同士を
さらに連結した細胞内でさらにそれらを連結した
細胞組織を。そして暗黒を背景に
恐ろしいほど鮮明に、高く白く噴水が戯れていた。(138p)

「そっくりそのままです。夫人の文体を変えたりなどしていません。ただ一箇所だけ誤植がありましてね―大したことじゃないんです。
噴水(ファンテン)じゃなくて、山(マウンテン))なんですよ。そのほうがタッチは荘重ですね」

誤植に基づいた―永遠の生とは!
家路に向かいながらわたしは思いに耽った。この暗示にしたがって、
わが深遠を探索することをやめるべきだろうか?
しかしすぐさま思い当たった、これここそが
真の核心であり、対位法的なテーマなのだということが。
まさにこれなのだ。テクストではなく構成(テクスチャー)なのだ。夢ではなく
あべこべの偶然の一致なのだ。
(152p)

『青白い炎』という詩の中における「青白い噴水」の意味は、詩集作者である娘を亡くした父親が臨死体験で「青白い噴水」を見る。同じ物を見たという新聞記事の臨死体験者がいるのを知って魂の領域を確信するけれど、それは「青白い山」の誤記であった。それでも、父親は対位法的な真実、つまり誤解によっても、いや誤解だからこそたどりつけたとして、青白い噴水に希望を見出す。

誤認と魂の問題で、ここだけでも、十分にブレードランナー2049のテーマ、父と亡き娘と魂でプロットにああ〜ってつながるんですが、この小説自体の印象も、うっすらブレードランナーにオーバーラップします。ある意味ブレードランナーネタバレでミステリではなく、誤認と真実、信じたいことと現実、その境界のあいまいさを書いた小説でした。

非常に錯綜した重層になっている小説で、説明すると何がなんやらですが、『青白い炎』という詩集、ただし膨大な量の注釈が入るという体裁をとった本。この注釈部分が一つの小説になっているんですが、あくまで注釈なので詩は切り離せない。

何も先が見えない状態で手探りで読み進むことで、展開と結末にああ〜!って面白がれるんですが、余りにも道のりが辛かったので、後続のためにガイド的なところ書かせてください。

3つくらい話が絡み合ってるんですね。

・詩集の作者による自伝的な詩から伺える娘を亡くした人生の物語
・出版した注釈者による注釈者自身の失われた過去の物語
・その二人が交流した時間について注釈者による注釈から読み取れる話

その詩集の出版者である注釈者は『青白い炎』著者を一方的に賛美する関係で、詩集著者の関係者から忌避されている。
この注釈者が曲者で、読者にとっても非常に嫌なやつなんだけども、本を読み進めるとその個人的過ぎる見解の嫌な注釈によって、本編『青白い炎』の曲解されていることが誇張的に表現されるので本来の成立過程が読者に理解されていくんだけど、同時に注釈者自身の話である注釈者への情報が読者にだんだん蓄積されて、それがミックスしていって、それはなぜなのか結末で明かされる。
ナボコフこざかしくて、どこから読者が面白いと思い出すかわかってて、「これは面白かったと思っていただけることを〜」みたいなこと言わせてたりして、言わずに入られないんだろうなあ。三重に作者がいることも隠さない。

それは、誰の記憶なのか、虚構に感情が宿るなら、偽者にも魂があるのか… ブレードランナーの資料本みたいなかんじで読んだので、ダメな読者でしたが、青白い炎にかつて挫折した人はブレードランナー見てから気になる!で、これ読むってものアリだと思います。