『時代遅れの人間』ギュンター・アンダース 青木 隆嘉

前書きが超陰鬱。人類が滅びた後に、廃墟で拾う本みたいなこと書いてある。

人間の尊厳の観念を植え付けてくれた父の思い出に、
人間の後輩にかんする以下の痛ましい頁を捧げる。
iii

この最終弁論を描いたのは、より人間的な世界が存続するためであり、もっと控えめに言えば世界が存続するためである。たまたま読んでくれた人々の中には、荒涼たる現代世界の激しい光に目もくれようとしていなかった人たちもいた。しかしそういう人々も、人類が自滅する可能性があるという革命的というより破局的な状況や― 自分が生まれ出てそうそうにこの世界に慣れ親しんでいること、しかもしの不名誉や状況は自分が生まれる前から始まっており、自分の儀医務が父や祖父にとっての義務でもあったこと、こういうことにクづいてくれることであろう。
終わりに、彼らや彼らの子供たちのために、私の予測が当たらないように心から願ってやまない。

一九七九年十月 ウィーンにて ギュンター・アンダース
vii

ペシミズムにひたる現代社会の落伍者には、すごく耳に心地いいよ…
人の物化は産業革命以来すでに指摘されてることで、物になれない、何もかも人間の能力を上回るモノにあわせられないことを恥じるしかない、だって人間はあまりにも不定形で自由で何物でもなさすぎる。生み出した物を見て自分を恥じる人間であるけれど、現代において接する物とは自分が作り出した物ではなく、突然突きつけられる完璧さであって誰が作ったのかわからない物に対してただ恥と完璧さの承認だけが…

要約しようと書いてるとわけわかんなすぎて、私の気がくるってるみたいな文章書いてますが、エピソード的に、自己物化の実例としてメイクアップとして少女の自己イメージが化粧をしてマニキュアをした像であって生身のノーメイクの自分ではないことや、スターが実物よりも常に若いとか、実例でわかり易いところもある。水爆や原爆、ナチスとかがヤバいのは、すでに人間には想像できない限界があるっていうとことか、責任が人間に無い決定プロセスで行われることとか。
現代社会の理想的な人間像とは成長し続けるパーフェクトな物であり、生身で生まれて不完全な人間は最初からかけ離れてるものだけど、それってどうなのっていう。

難しい本で、正直わけわからんとこも多くて大分読み飛ばして正直これ書いてるの読んでる途中で上巻でもうくじけそうなんですけど、人と物に差が無いディック的SFのポーズだったり、わりとまじで複製とオリジナルの差分とか価値ってどこにあるのかわからない私としては、人間らしさは物とは全然違うっていう人の話なので興味深いものでした。自分が持ってる価値観の、人と物の同一視は、時代の文化的な産物なのかもねえってくらいの位置まで後退しました。
なんか今日の感想文はバカが読むとこうなる!みたいな。

物ではないことに対する羞恥の態度とともに、人間の物化の歴史における第二段階が始まったのである。つまり人間が、物の優位を承認し、自分を物に合わせ、自分の物化を肯定し、物化されていないことを欠陥として非難する段階が始まったのである。あるいは、(この段階を自分はすでに超えていると思えば)、物化された人間にとって、この(肯定ないし非難という)新しい態度が第二の天性となり、判断でなく直接に感情としてその態度が生ずる第三段階が始まったのである。
32p

人間は自分が作る製品より変わりにくいが、ずっと短命で死ぬものである。とにかく人間は、自分の作品には与えることもできる不死性とは言わぬまでも、長命さで競うなど思いもよらない。
もちろn製品も厳密な意味では「不死」ではない。瓶詰の果物とか冷凍のスクランブルエッグの耐久性やLPや電球の耐久性にも限度がある。しかし多くの場合、(たとえば製品の需要を確保したり増やすために)製品に可死性を与え、その寿命の限界を計算して定めるのは、われわれ人間のほうである。われわれ自身の可死性だけは、われわれが作り出したものではない。(中略)個々の物としては、機能上、使用上で寿命がある。しかし大量生産品としてはどうだろうか。切れた電球と付け替えた新しい電球は生き続けているのではなかろうか。 55p
使う品物を不死とみなすか可死的なものとみなすかは純粋に金の問題である。金回りのいい人はどんなものでも新品に取り換えることができる。(中略)これはこの場合は、われわれが誰ひとり(同時にまたは継続して)複数で存在することができず、電球やLPのように新品になって生き続けることができない― (略)彼は既製品のオリンポスに上ったのではなく、原料の冥府へ落ちていったのだから、生前彼が賞さんしていたあらゆる品物よりもみじめな品物になったのだ。58p