日記について→詩について→小説について↓

●死ぬほどつまんない独り言を言う趣味はないのだけど、いや独り言は必要なんだけどそれ誰かに聞かせるのはどうかなーと思うのですけど。
詩でも同じです。
未熟な、というのは私が言うのはおこがましいけど、とりあえず詩の形になるのはすんげー簡単なだけに、自分の気持ちを適当に書いてる詩が一番見難いです。
あと、そういうことにばっか時間費やしてるとますます自己憐憫の深みにハマってそうなんで、そんな人にモダニズムの明るさを届けたいと思い続けて早三年。(短いよ)。完全に操作だけでできあがる詩の単純明快さで、心が晴れたらそれは素晴らしくよいことだなーと思います。
●個人日記の「どう思ってます〜」とかって、正直に言うと、その事柄そのものに自分の興味がないと読む気がしねぇであります。だからオタク日記だとオタクなことしか書かないし、こっちの日記でもなるたけなんかタメになりそうなこと書いとこうと思うのです。
酷ですが、友達の小説とかも、その友達への興味があることが少なからず読む動機になってます。
だけど、小説読む動機とかって、だいたいそんなもんじゃないかなぁー。自分の興味ある事柄から入って、本を手にとる。
そこでの作者っていうのは、読者に興味あることを提供する人であって、作者なんてどんだけ価値のあるものなんだろう。特権の位置を認めるかって言ったらすげー微妙。ディスクアニマルの種類が知りたくてたまたま引っかかった日記の作者と何が変わるというのか。
作者で本を読むようになるのは、作者に興味の対象が移るからなんだろうけど、作者に興味持ってくれるっていうのは、前述のとおり自分の興味ある事柄を提供してくれるからであるんではないかなー。
●で、謎なのが純文学の人。
ハーレクインだったらロマンス書いて、大衆小説だったら人情とか興味持たれそうなこと書いて泣きたい欲求に応えればいいし、推理小説なら手練手管を磨いてトリック構築して騙してあげればいいし、とりあえず興味持ってくれる人の時間つぶせばいいんだけど、でも、純文学ってなんで書いてるんでしょう。っていうか読者は純文学に何求めてるんだろう。

感動かなぁ。何物にも換えがたい文学ならではの感動。技術かなぁ。技術目当てだったら、わからなくもない。
なんなんだろうなー。読者は何が読みたくて、作者は何したいんだろうなー

・・・と、最近まともに本を読んでいない十点の独り言でした。今日の日記は、私に興味ある人は読むんだろうなー