作者の言葉 FF6GFと山椒魚

部屋の整理をしていたら、『FAINAL FANTASY Ⅵ GLAND FINALE』を録音したカセットが出てきました。中学生の頃にレンタルして録音した時に読んだ、ライナーノーツに書いてあった作曲者さんの「このCDには満足していない」という言葉を真に受けて、あんまりCDを買う気はしなかったんです。
だもんで、近所のレンタル屋でレンタル落ちが安く売ってるの知ってたけど、今日まで買わずにいました。でも今日、レンタルしようとしたCDが、中身がどっかいっちゃってて借りられず、手持ち無沙汰なので買っちゃいました。


美しいジャケットのCDです。天野氏の柔らかい色鉛筆画による、赤を基調としたこのジャケットは改めて見ると、とても綺麗でした。中にもイラストが配置されていて、見て楽しいライナーです。演奏の良し悪しはわかりませんが、印象的なメロディーの多かったFF6の音楽が生楽器で、しかもオペラのソロの歌まで入っていて、聴くのが楽しかったです。昔聴いたときよりも、鮮やかな気がしました。


もしも、植松氏によるライナーノーツが、ああいう内容じゃなければ、お気に入りのCDになっていただろうなーと思いました。



で、
ちょっと思い出したのが、「山椒魚問題」。
井伏鱒二は長生きしたもんで、若い時に書いた「山椒魚」を晩年手直ししました。若い時に書いたやつのほうが、文芸作品としての評価は高い、けど作者的には気に入らないから改稿したんだろう、けどそれってどうなんだよーっていう話であります。
作者と作品の距離を考える時にすごく重要な問題っぽい。
作品が、音楽とか文芸だと勿論違うし、商売か商売じゃないかとかもあるし、時代も違うし、単純な話じゃないけど、なんか考えてしまうよなぁ。作者と作品の関係って、難しい。作者が進化だと思っても、受け手はそうじゃないと思うかもしれないって結構普通にあることで、「あのアルバムだけ好き」とかよくある話です。


「これはよくない」っていう言葉は、誰にでも言えるけど、作者っていう、作品の成立にすごくかかわってる人が言うと重大な気がするけど、それは気のせいで、作品と自分っていう関係を大事にしたほうが、楽しいことが増える気がしました。