『小遊星物語 付・宇宙の輝き』パウル・シェーアバルト 種村 季弘訳

架空の惑星のユートピア小説っていうことで、『カシオペアのψ』みたいなもんかと思って読み出したら、なんか妙につまんねぇなー これって金星に拉致された人の手記系なスピリチュアル系とかマズイ系統の本だろうか、平凡社ライブラリーだしなーと思いつつ途中で切ろうとして、あとがき読んだら俄然面白くなりました。WW1の全体主義へ向かう世相で、ホモソーシャルの異常なユートピアを肯定している変な話だよまったく、というあとがき&解説のラインで読むと最後まで面白く読めました。この全体主義肯定、機械万能の肯定とへんな悲壮とか、あれだ、ヒトラーSFの『鉄の夢』を地で行くかんじ。

平凡社ライブラリー版 解説が、いろいろとタメになったので引用。

ほとんどシェーアバルトと同時代人であったと言ってよい不気味な神学者にルードルフ・オットー(一八六九-一九三七年)がいて、彼の主著『聖なるもの』は『小遊星物語』に遅れることわずか四年という実に意義深いタイミングでの出版である。人間が何を神と感じるかの分析をして、「ヌミノーゼ」という観念に至った名著。
要するに固体としての人間は集合体としての全体に比べて自己を圧倒的に矮小なものとして感じる、そのときの自己卑下と戦慄を、いっそ全体と一体化することで一挙に解消しようとする。不安の解消は「美」として感じられるから、つまりは戦慄と魅惑が一体化したものとして宗教は現れ、そいした対象として「神」はある、というのがオットーの名を一躍高からしめた「聖なるもの」の理論であった。
試みにこの個の孤独を癒す全体性を「集合的無意識」と名づけてみるだけで同時代がたとえばユング心理学を生んだことの意味もわかってこよう。そしてその全体性を「民族」と呼びさえすれば、これはもうそのものずばりナチスイデオロギーにほかならないのではあるまいか。
(たかやまひろし/英文学)