父親の話2 家

自分が給料もらう身になってしみじみ身に染みるが、父親は高給取りだった。
1匹10万円のノーザンバラムンディや、1匹17500円のインペリアルゼブラプレコを群れで買い、熱帯魚のための水道電気代は月4万円×数十年、健康にいい放射能の出る石(天然ラジウムかしら)を1個40万円×2で衝動買いしてもビクともしない経済力。母親がマルチのアロエジュースにハマって数十万使っても離婚もしない経済力。まあこの母親が買っちゃう健康食品が子供のためとか、父親の躁鬱病に効くとかいう理由だったりして、やるせないよな。善意、この度し難い物。母親は問題点に付け込んで、自分の無力を代わってくれる確かな効果うたわれた物品で介入することで、人間関係をコントロールしようとしていたのかもしれない。特に父親は自動的に恵みをくれる天候と対して変わらない意志疎通しかとれず、時に天災のようなものだったから、そんな確かな物にすがるコミュニケーションになったんだろう。相手にも自分にも心は意味がなく、物の価値だけが確かだ。母親は嘘をよくつく人だったが、嘘は物ではなく存在しないのだから何も問題がないのだろうと、今ならわかる。

さておき、
父親は妹が生まれることを理由に海外転勤は断って国内勤務という名の左遷コース(でも赴任してたら湾岸戦争)だったが、時代に即した学部と業種で、社宅があり福利厚生が潤沢な超巨大企業。一族兄弟で一番出世したはずだ。業界がらの風土や激務で、躁鬱病が何度か再発するのも、仕事をするようになった今の自分なら肯ける。家系的に私含めて親戚一同に睡眠のトラブルを抱えた人間が多く、弱いところがあり、家系で一人そのような人生を送ったから躁鬱病を発症したのだとも思う。
巨大企業なのと時代柄、首にはならなかった。首になったら家族一同、即社宅から路頭に迷っただろう。

転勤族は家を購入する目途が立たない。幸か不幸か、私が中学生になる頃、首都圏に転勤となり、父親は転勤先で買った土地を一度手放している。バブルの造成地だったので大損したそうだ。
社宅から、車に乗って2時間、山の中のニュータウンに買ったという土地を見に連れて行かれたとき寂しい土地だと思った。軽トラをレンタカーで借りて何故かテーブル代わりの巨大な電線リールを置いていったこと、とにかく所有したかったんだろう。
夕食後、日曜か土曜の夜かに父親のエンピツ手書きの家の間取り図を囲んだこと。このときまだ40前だった。今調べたらその造成地の中古住宅は立派な100坪の家が数百万円の無情…。

建築士として働いていた父親は、これまた幸か不幸か自分の一国一城を建てることはなく、中古住宅をお得に買った。他人の個人住宅の設計もやっていたのに。
新日鉄の社員向け分譲地で部長がオーストラリア移住したから売りにだした家だそうだ。居抜きのシャンデリアやステンドグラスなどオプションが豪華。大企業は、会社から帰った後の人生まで世話してくれる。

父親の職業柄の押し出しと、躁うつ病とかそのへんのアッパー系で他人の話を聞かないゴリ押し外交で、不動産屋からそうした情報が回ってきたようだ。いまいちな一般人でカモ枠の私には知り得ないし、まずもって知らされず、ググっても調べても頼んでも出てこない、人間のつながりの中で叩いて締め上げて吐かせる情報である。この手の業界は人種が違う。つくづくかわいそうだとも妥当だとも思うが、カス情報ばかり持ってくる営業は潰された。営業さんが人間を見る目がなかったのが運の付きである。自分の父親ながら、商売でも相手にしたくない人間だ。

お隣さんは皆、巨大企業サラリーマンとその妻らしく、社交的かつ品のよい付き合い易い方ばかりだった。子供たちは独立して高齢の夫婦住まい、父親よりも一世代上の隣人たちは、私が大人になる頃には、おばあちゃんが転倒した、老人ホームに入ったなど、一軒また一軒と空き家になっていった。お屋敷未満、外壁タイル張りや沖縄風など存分にカスタマイズしたちょっと個性ある外観の家たち、役つきにはなれなくても大企業の社員として一生を終った人たちのちょっと豪華な家もまた、その生を終えて解体されていった。空き地に囲まれて元・部長宅が残る町となった。この就職間もないころに、躁うつ病が悪化した父親が隣の家が売りに出ていたとき(結局解体)私名義でローン組もうとして、銀行職員から電話がかかってきたのは、躁うつ病患者の家族にありがちだけれど、当事者には冗談ではないエピソード。

空き地は、また一つ世代とグレードが下がった層が購入し、新居建築をしていった。鉄鋼マンたちの夢のマイホームが並んでいた地域は、夜10時の新居パーリーで躁鬱病の父親が警察呼んだりトラブルになる程度の界隈になった。隣人が御障り厳禁の精神病だとは、夢と希望にあふれた若い人間にはたまったもんじゃないだろうが、先に住んでたもんが勝ちである。まだ、その世代に子供は生まれていないらしいので、大きなトラブルはまだまだ先だろう。一律白い外壁パネルの建売に囲まれて、元部長宅の二世代前の家が建っている。父親はこの家を買って住んで10年。そのうち数年は通勤し、半分は躁うつ病が悪化して寝ていたので、賞味1年か2年か…。子供は全員出て行った。この家もまた、周囲の家がたどった運命を遅れてとる。人生は短い。

なお、薄給の身の上にはねたましい数千万円の退職金でローン完済、その後のメンテも職業柄怠っていないので、飛行機でも落ちてこない限り死ぬまで無事住んでいると思う。

徒然と、車も家もない自分の人生は、「ある」人生を目指すと1世代前の生活を足らないお金で縮小生産をすることでしかないので、何か違う人生でないと、不満だけのナイナイだらけの人生になるだろう。まず、自分の父親、がいない。家を買う能力、無神経さ、そのすべてが無いことを選ぶのだから。
だから、金と車と家で得たものはなんだったのか、少し整理したくて書き起した。

子供の時の自分の思い出の中の車にはマネーと労力のカロリーの高いイベントがまつわるので、それだけの熱量質量は代替できるだろうか。子どもが子どもでいるののはあとたった数年間しかない、もうすでに幼児時代に突入して子どもになってるので、今すぐ実行にうつさないと間に合わないだろう。何かしたほうがいいのかしないほうがいいのか。


家は、子どものときの思い出がないとノーカンで、時代の流れですでに取り壊された社宅がふるさとの思い出なので、子どもが住んでない家にふるさとという価値はないんだと思う。ただ、今でも父母二人の家の中に、子ども用のスキー用品や5人分のキャンプ用品があると思うと、そうしたイベントの再生産が行われずに、終わりになるのはさびしい事だとも思う。ここ10年で親子の仲がとても悪くなったので。もっとも、みんな錆びたり、プラスチックは割れたり、思い出しもしなかった20年が間にあるんだから、物が人知れず朽ちて寿命を勝手に迎えているのではとも思って慰められる。

妹たちは父母と仲が良い。でも、父母にカラオケセットなどあげていることを聞いて、どんな高価な物をあげても決して満足しないし、プレゼントには無限のアラ探しで付け込まれるだけで、君の心は受け取っていない、物しか存在しない人たちだということにいつ気が付くだろうか…妹たちもその世界の住人だろうか。物でも幸せになれるなら、それでよいのかもしれない。物を買うこと以外でどうしたら幸せになれるんだろう。