父親の話1 自動車

私の思い出兼ねて、父親の生涯についての話になりそうだ。
私は車にとにかく酔いやすい。車に乗るたびほぼ吐いた。その場を片付けたのは助手席の母親だが、免許もなく機械に弱く車のカギは持たない母親なので、後で消臭なり清掃なり、愛着のある車のメンテナンスをしてカギをしめて帰ってきたのは父親だろう。

私が小さい頃の車は、プレリュードだった。
今は安全上もう生産されていない「目が開くヘッドライト」のとってもカッコイイリトラクタブルライト。
バンパーが側面まで回り込んで一見ツートンカラーに見えるフロントの記憶からするに、1982リリースのAB型かその後の1984マイナーチェンジ。ブロンズガラス、4Wだったと言っていたように思うので、グレードはXXか。
しかし、シートがフルモケット、フォグランプがあり、パワーウィンドウだったように思うので2.0Siかもしれない。
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どちらにしても、私が生まれていた後に、当時デートカーやナンパ車と呼ばれていた、とにかくカッコイイという車へのロマンと夢ごと、この車を選んで買ったようだ。
2ドア車なので、後部座席に子供が乗り込むのは大変なのとかどうでもよかったようだ…いや、運転席から助手席を操作できるので、子どもへ一応配慮したのかもしれない。カッコいい車で、社宅の駐車場にセダンの2ドアはこれ一つだった。当然他は4ドアファミリーカーだ。

メーターの写真が懐かしい…行楽地から、ショッピングセンターで一日楽しく過ごした、帰宅の夜に渋滞でボンヤリしてヒマしてる子どもの目から見た、真っ暗の車内に肩越しに浮かぶ低輝度のオレンジ色のメーター、と運転する父親のシルエット…。
家路だけれど、渋滞で車は動かずいつ着くのか、深夜までに明日までに付くのかもわからない、不安の時間と共に。
スキー旅行の車中で4WDであること、濃霧煙雪でフォグランプを点灯する話をしていたと思う。シートは水色、車体側面にラインのステッカーをつけてカッコよくしていた。
しかしながら、いい思い出だけでなく、個人的にはとにかく気持ちが悪くなる車で、吐きまくった思い出ばかりなのだが、乗車しないという選択肢は子供には無かった。だが、吐きまくる子を乗せないという選択肢も父親には無かった。面倒だと思ったり嫌だと思ったりしたかもしれないが、吐きまくる子どもをカッコイイ車に乗せてレジャーに行く無神経さが、当然のことだという、ある種、信頼だったのだろう。


3番目の妹が生まれる頃、父親は躁うつ病で入院していて、このプレリュードはただ駐車場にあるだけの長い空白があった。


子供2人と妻を乗せて9年乗ったプレリュードの後は、2代目パジェロのロングタイプ。シートが3列7人が乗れる広くてお高い車。350万円〜!高級車〜!父親は高級取りだった。7〜8km/Lという脅威の高燃費(今は10〜15km/L。軽自動車なら20km/L)で、生後間もない3番目の妹乗せてスキーや、海や、山や、川に、渋滞数時間を10年以上走り回ったのだ…

娘3人となり、世はレジャーとスキーの時代で、SUV車がブーム。
ネットで往年の車体を見ると、父親の車は標準仕様ではなく、いかにもオフロード仕様のフロントメタルトップに、大型の丸いフォグランプを、選んでカスタマイズした物のようんだ。当時、小学生の私は派手で嫌だと思っていたけれど、カッティングシートでドアに模様を入れてあった。底辺学校で目だっていじめられ気味だった私はテストの得点を75点くらいに調整するほど、目立つようなことがとにかく嫌だった。今ならわかるが、年間最多販売数を誇った車種で、白いパジェロなんてものすごくありふれていたので父親の現実的な判断だったと思う。そしてやっぱり、カッコイイ自分の物がほしかったんだろう。自分の所有として。

このころは隔週で週休二日。その月2回の貴重な土日休みをレジャーに使うべく、金曜夜12時くらいに帰ってきてからの1泊2日のスキー旅行。でも、当然朝は父親は寝て出発は昼近く。早く行こうよ、早く出ないと渋滞で混むよとよく子どもたちが急かしていた。4時間以上運転して、スキー場へ、リフト券を一人3000円くらい払って買い、レストハウスで場所取りをしてビーフカレー650円を高原ソフトクリームを並んで買って、席で雪が溶けて濡れネズミになって待っている子供たちに食べさせ、着替えさせ… 親目線で思い出してみれば、本当にくたくたに疲れていたんじゃないだろうか。スキーシーズンが始まる前に、子どもたちを連れてスキーショップのヴィクトリアに行き、3人分のウェアとゴーグル手袋、スキー板をお揃いで買う… ソリや、カバーリングや、行楽アイテムなど、どれだけの物を買ったんだろうか。本当にお金をたくさん使っていた。社宅は、考えられないほど広く5LDK 倉庫付みたいな間取りで、学習机が3台置けて、父親の部屋もあった。貸家いっぱいに、子どもと物が詰まっていた。
パジェロの後部シートは、遊んだ子供の泥靴やびしょ濡れの服で汚れまくったはずだ。

父親は、躁鬱病からか性格か、他人をかまわない気難しさと軽薄さのMIXで、時に非常に他人へ迷惑かけるタイプの、よくわからないところだらけの人間だけれど、それが普通の父子の関係性の中の範疇なのか、普通とは何か、どこまで自立して他人として耐えられるのか、よくわからないのでそんなことはさておき、今でも忘れられないエピソードがある。
宿泊施設の夜、一人で大浴場(三人娘なので)から遅く戻ってきた後、

「風呂でうさぎのおかあさんに会った。おかあさんはこどもがたくさんいて大変だ大変だといっていた」

という話をしたことがあった。普段、そういう御伽話をするような人物ではない。平日夜は仕事で全く家にいないのでそういった夜の会話が珍しく、その後どうなったかしつこく楽しく尋ねた思い出がある。毒ガス島、今はうさぎで有名な大久野島国民宿舎で夏休みに宿泊したときだったと思う。
このときの父親はまだ37歳くらい。そのとき10歳くらいの私は今34歳…。全体の印象として、やはりよくわからない話だが、今は言葉にはできない共感がある。瞬間は美しい。

私が8歳の誕生日、車で数時間かけて行楽地の川岸へパジェロを乗り入れ、ターフを張ってスモークチップを入れたコンロを用意して、テーブルに食事を並べて祝ってくれた。90年代キャンプ雑誌の巻頭モデルようなファミリーレジャーだ。しかし到着後すぐに、川で溺れた少年が引き揚げられて悲鳴と怒号、救急車のサイレンが渦巻く中、ハッピーバースデーを歌ってケーキを食べて食事を続けた。溺死体の数メートルそばで、家族5人がハッピーバースデーを歌ってるのは、今どう考えても変っていうか不快だし、悪夢のような現実離れした思い出である。父に、他人は存在していない。

私が7歳の誕生日の前の日、オモチャ屋に連れて行きジグゾーパズルを選ばせて、買ってくれた。父親が完成させて額に入ったジグゾーパズルがプレゼントされた。前の晩に父親は徹夜で組み立て、最後の一個のパーツが無いことで、子どもたちに夜中怒号を発して探させて、結局一つ欠けたまま夜中にハッピーバースデーを歌った。そのとき私は祝われて嬉しかったのではないか。よくわからない。他が無いのだから、幸せとして受容するしかないのだ。よく思えば、父はジグゾーパズルが何をするものかよく知らなかったのかもしれない。

記憶がさかのぼるほどに、自分の心がわからなくなるのに、父親が嬉しそうだったり楽しそうだったり、若い顔で、幸せそうな思い出を見つける。幼いころ、まだ自分の心が定まっていなかったのだろう。
私が2才の頃、現場に捨てられていた子犬を拾って帰ってきてそれを見た私はとても喜んでいたが、母親が妹を妊娠中で飼えなかったという。翌朝犬を持って家を出るとき、私は泣いていたそうだ。私が20歳を過ぎて家を出る直前の頃に、ペットショップで在庫処分の犬を買ってきたときに、昔犬を拾ってきたのに、と父がしゃべっていた。
山奥の現場なので、子犬はついでに埋めてしまったらしい。この話を聞いたのも、もう10年程前のことだ。


パジェロは、ディーゼル車規制のときに、次の車に買い替えられた。中学生だったか高校生だったか、よく覚えていない。もう父親の車に乗ることはほとんどなくなっていた。
時代を象徴する車種を家族に合わせて選び、レジャーのためにごく普通にハンドルを握っていた父親と、その後ろに乗っていた私は、幸せな親子だったように思う。車が持つ強力な幸福のイメージに包まれ、車で運んできた家の中を埋め尽くす物に囲まれて、本当にまるで幸せだったようなのだ。幸せでしかない物だった。心がよくわからないから、確かな物があったと思いだしたくなる。プレリュードは、調べれば調べるほどホンダのスポーツカーという80年代のカッコよさの最先端で憧れる。パジェロも90年代のファミリーを乗せて大自然に乗り込んでいく4WD車のイメージで本当に幸せそうだ…。父親は確かな幸せを買ったのだと思う。