『チェルノブイリの祈り』スベトラーナ・アレクシエービッチ 松本 妙子訳

図書館予約待ちだったのがまさかの2連続で届いてしまった超重いルポ。インターバルないときつい。

チェルノブイリ原発の事故処理した人、住人、役人、えらい役人、物理学者、カメラマン、記者、先生、子ども、母親、父親、様々な人へ事故10年後インタビュー。
世界が終わってしまった人たちの話。

世界ってこんな風に終わるんですよ、という夢のような美しいディストピアみたいな記述もある。薔薇の花壇と近代住宅の豊かなプリピャチ市でメーデーパレード、春の雨、黄色や青の水たまり、原発の火事の炎が照らす明るく美しい夜空、窓から暖かい風が吹きこむ夜…
そして翌日も雀のように遊ぶ子供たち。
共産主義の素晴らしいもの全ての終わりであり、科学と核の未来の終わりであり、村の暮らしと祖先の墓はなくなり父親は死に子供は病気になり何もかも終わり。
それからのチェルノブイリとして、永遠に失われた権益を求める、何もかもチェルノブイリのせいみたいな意識の話とか、とにかく多面。死んだ消防士たち、病に苦しんで死ぬ子供、夫や子を失った母親たち、老婆たち、単純な事実としても超重いんだけど、それについて語られる悩み苦しみっていうのがまた。

科学の政治化と、こうした語りによる個人化、事実の周辺っていうものが、同じ土壌、人間の同じ部分から生まれているものかもしれないとも思います。よくもわるくも。そして同時に反発しあう、「放射能にも負けずに毎日働く私たち国民は立派で素晴らしい」と「私は怖い、死にたくない」。
現実と人間にこんなに強い相関があるって、当たり前っぽいけど思っても見ない発見というか、現実っていうのを発見するときは、その現実によって人生が損ねられたときなんですね。
人間は人間の言葉でしか語ることができない、真実、嘘、信じていること、告白、全部が渾然。


やっぱ事件について検索とかするんだけどさ。検索したらでてきたこれなんか、「ノーベル文学賞チェルノブイリの祈り』の危うさ
http://agora-web.jp/archives/1657802.html」意外と少ない被害数字だから本に引きずられて感情的な過大評価しないようにねっていう趣旨の記事なんだけども、本を読んだてのかしらっていう。役所に陳情しても相手にされないっていう話じゃん…この本にあるような政治の歴史状況下の人間が、被害者も加害者も目の前の出来事が認識ができなくて、いっそなかったことになるような時空間での疫学的調査なんかそりゃメチャクチャだし、発表された被害の数値は何を数えたのか?っていう。陰謀論とかじゃなくて、人間が認識できることについての話と思うんですよ。

これもすごい。
「そうですね。ロシアとか中国のように、一党独裁体制というか、強いリーダーシップで動く国のほうが長期的、国家的な技術開発には有利じゃないかなと、最近そう感じるようになっています。」http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20170201-00010002-will-pol&p=2
もんじゅすごいのに廃止なんてしないでっていう記事なんだけど、そういう人間の意志万能ドンドンの行き着いた先にチェルノブイリとかあったよね…っていうさ。

なんとなく漫画ナウシカの最終回を連想するんですね。人間主体の善悪っていうか。私はわりと人類嫌いなので、現生生物総入れ替え計画を潰して、心や苦しみや経験といった人間性と今の生物が続くことを選ぶあのラストは、未来を台無しにしやがってと思わないでもない。どちらも生体系なんで優劣とかないんだけどさ。
私の中では厳然として、こうしたファンタジーしかもオタクが作ったようなもんは、一段下で区切らないと事実に対して冒涜だっていう気分があるんだけど、こういう語りを前にしたとき私の中でつながるものがそういうオタクファンタジーだっていうのがなんともはや。認めなくてはなるまいこんな人間性を。