『中動態の世界 意志と責任の考古学』國分功一郎

「シリーズケアをひらく」のレーベル・・・ちくまorみすず書房or岩波新書で見るかんじの本。同じシリーズの六車由美さんの民俗学の本は、著者が民俗学者→現在介護職だから、介護職実録になってて、例えば利用者への声かけにトイレと言わずにその地方の方言のトイレを表現する単語を使うとか、このシリーズに入る意味も即効わっかるー。という本だったんですが、この本は難しい。ケアに直接すぐには役立つ本ではない。っていうかわりと小難しい本に入ると思う。大学受験の問題文にそのうちなりそう。
でも、人間観っていうすごく大きいところで得るものがあると思います。
健常とみなされるもの以外すべてに。

ただほんとに結構むんずかしいのよ。図書館で何十人待ちだったけど、なんかサクっと回ってきたもん。
終盤257pで大爆笑できるのでそこまでがんばって読んでほしいです。私は報われた。挫折しそうなときは、これがカツあげされる人を説明する話だったことを思い出そう!
言語史ダイナミックで、言語雑学がみるみる一本につながるとても講義が上手そうな先生。なんで、最後だけ読むっていうのでは結論がわからないタイプの本なんで、がんばって。1講義ごとに丁寧に振り返りまとめをつけてくれるのが授業っぽい。

中動態という、能動と受動でも表現できないことって現実問題としてあるよねっていう話で、能動受動の言い方があるってことは対立の中心になるところに「意志」が有るか無いかっていう争点があると。
意志があれば罰していいのか、じゃあ意志が無ければ重大事件でも罰してはいけないのかとか、意志の有無で刑事罰とか決まるのが現在のリアリティですが、そもそも意志っていうもの自体が自明に存在するものじゃない。言語っていう大きなくくりで、能動受動っていう対立の形式現れるのが結構新しくて、もともと動詞は主体を必要としない名詞であり、ギリシャ語の諸作品に意志というものが欠けている話であること教えてくれて、能動と受動に優劣があると判断されること・・・中動態の消滅の歴史とはすなわち、意志という概念が存在するようになっていって重要だと見なされるようになってきた歴史。

意志ってまるで大事なことだけど、意志の介在しない時間が人間には膨大にある。それをすべて対立だけで表現する言葉があるっていう、今の世相があるんだけど、うまく説明できないこと多々あるわけで、そうではないもの、かつてあったもの、について考えてねと。

この本読んで、南米文学の超自然的、宿命的な行動をとらざるをえない人間たちや、私大好きフォークナーの権力への反抗と暴力とともに生きることが同居する人間とか、印象が新しく整理されました。すげえ本だ。
老夫婦晩年に息子が帰ってきたことを聖なるとしか言いようがない叙述で描く「聖母の贈り物」、能動とは言いがたい状況のうちに家族すべての死の引き金をひくおばあさんは邪悪なのか「善人はなかなかいない」、イーユンリーの描く政治と切り離せない生き方をする人々・・・、理屈からはみ出す何かに強烈に惹かれた作品たちが生き生きと思い出されます。
でも大学生とかで読んでもわかりきらなかったろうなあ。頭の中身の問題もあるけど、自分自身が若いくて体も大勢も無視できる意志振るう元気ある存在だったからなあってのが大きい。


言語の話題に浸ってると、つい思い出してしまう伊藤計画。言葉が人間が見る世界を作ることその逆をすごくドラマチックにフィクションにしてくれてたんで、生きててこの本読んだらきっともう一冊書いてくれたんじゃないかなあ。
屍者の帝国』なんか中動態の考え方がまさにハマるんだけど、中動態不在のリアリティとしての能動受動の鋭い葛藤のフレーム持ったまま、受容にいたったようなあとか。あとこの本の著者が言う文法はアンバランスで不整合な体系で人間の認識そのままにどんな言語自体も変化していく、というのと逆に、人間の原型、起源を言語に求めてる感とかあったなあとか。
殺戮器官の最初のほうの舞台もさ、共通基語が東欧であろうっていう知識だったのかなとかぼんやり思い当たるのでした。