楽しい科学

スペースシャトルの記事がたくさん読めるようになって嬉しい。
週末だったからか、子ども向けの記事とか、コラムとか楽しめるかんじの読み物がたくさんで嬉しいのです。しかも失敗を乗り越えましたっていう〆なので、希望があって読んでいて気分いいです。
記事があるってことは、ちゃんと情報はあってそれを出さなかっただけなんだろうけど、やっぱり落ちる不安があったから、こういう記事が出なかったのかなぁ。

宇宙への憧れは、科学信仰の一派で、おおざっぱに世界だと19世紀、日本だと昭和はじめっぽい文化の一翼だと思うんだけど、科学が信仰に値しなくなってからは、神様→妖怪みたいな凋落してると思います。で、それでも科学を信じるのは、古い昔ながらの信仰というところに拠っているだけでしょう。「ものづくり」という言葉が力を持つのは、正しいとかより古さが信頼になってるんだと思うつ。ちょっと思ったんだけど、女の子どもは占いとかお話しとかが好きで、男の子は科学とか強い物好きだったりする志向は、大人になっても変わらないと思う。だから、おばあさんは変な占いとかおまじないにハマるし、おじいさんは怪しい機械とかすばらしいデータの健康食品とかにハマるんだと思う。超おおざっぱですけど、あんまり的外していないような気がしてます。
いまどきの子はそうでもないかと思うんだけど、物事教えてくれる人の影響に染まりやすいですからこういうの根強いと思うんだよね。次は何が信じるに値することになるのかなぁ。そのとき自分は軽やかに、受け取れるのかなぁ。それとも、もう新しいのがあるんかな。

ニセ科学入門
このサイト読みながら、思いました。信仰っていう衝撃的な言葉ですけど、思いがけない盲点で、目からウロコ。そーだよなー、こういう考え方って、一人だけじゃなくて、傾向として全体にあるんだろうな。国語や文学の中でも、中谷宇吉郎とか寺田寅彦とか科学者と二束のワラジな人がおもしろいように感じるのは、私の傾向として科学信仰あるんだろうなーと思いました。あと宮沢賢治とかも。科学と宗教と、宮沢賢治が生きてた時代そのときに新しかったことで希望を構築した、ってのは一面としてあって、それはもう時代遅れの化石のようなのに、まだ暖かいのは不思議なことだなぁ。何かひとたび信じられると、なかなか捨てられないものなのかもしれない。宗教とかもそうかなと思う。大昔に何かひとつ理屈ができるとなかなかなくならない。