『なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記』H.S. クシュナー 岩波現代文庫

ものすごいタイトルだ。ちょっとナルシスティックなタイトルじゃない?とか、思いつつ宗教宗教ってかんじなのかなーと思ってたら、全然違いました。
ヨブ記が一番の大きなテーマになっているんですが、作者の存在に言及する時点でおっというかんじでした。

むかしむかしの物語
二五〇〇年ほど昔、ひとりの男がいました。名前すらさだかではありませんが、彼のおかげで、それ以降の人びとの心と人生が豊かになりました。心の細やかなその男は、高慢で身勝手な人びとが栄えている一方で、善良な人びとが病気にかかり死んでいくことに気づきました。(中略)まれに見る文学的才能と知性をもっていた彼は、善良な人に災いがふりりかかるのをなぜ神は許しているのか、という主題で長い哲学的な詩を書きました。その詩が聖書のなかのヨブ記なのです。(p44)

それに加えて翻訳によって、まったく意味が異なってたりするんで記述に悩まされることも書いています。このようにテキストを扱うという態度は、テキストはテキストとして扱うように勉強した私の感覚としてもものすごく近い。
聖書原理主義の対極で、まともな宗教の人なのか異端なのかわかりませんが、1981年のベストセラーだそうなんで、これが受け入れられた時代が少なくともあったという事。今はどうでしょう。やばい人いそう。と思って検索したらマジで原理主義者いてウケる。釣りじゃあないんだろうなあ。話通じない感がやばい。http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12121171922


自分の幼い子が死病で遠からず死ぬことを告げられて、私何か悪いことした?普通の人よりよっぽど正しい生活してたのになんで?私にはわからない神様のご意志なの?と問うユダヤ教の聖職者ある著者が、子の死後の葛藤の末に書いた本。とてもやさしげな語り口の翻訳で、押し付けがましいことなく、正義とかそういう話題についての話じゃないんだ。

人柄がしのばれるような、やさしい語りで議論はハード。だってヨブ記って、キチガイ系神が信仰の厚い人に、財産失う、子が死ぬ、自身も重病になる、という災厄送りまくる話。なんでじゃ。超謎。この解釈をするんですよ。
↓の3つが機能して、ヨブは元気で楽しい人生送ってる。だからヨブが災害に見舞われて不幸になったら、それはこのうちのどれかが破綻したということだ…から始まります。
①神は全能。世界の出来事は神の意思に反して起こらない。
②神は正義であり公平だから、善き人は栄え、悪しき者は罰せられる。
③ヨブは正しい人である

③の破たん、すなわちヨブが悪いことしたから罰を受けた、というのは災害の理由として間違っている。ヨブは良い人だった。人間に理由がある災厄ではない、あなたのせいじゃない。罪悪感の苦しさと、不幸の原因を人間に帰することの残酷さを描きます。
②も違う、善い人も交通事故にあったりする。悪い人に悪い事が起きるとは決まっていない。

ということでなんと①神の全能の否定を採用。異端か。
読んでものすごいショックでした。そこ!
この不幸な出来事は、神の意志ではない。神もまた、この理不尽にあなたとともに心を痛めている、という立場をとって、神の否定ではなく救いとする話。人のための神っていう。
実は、最近読んだ心理学の公平世界の仮説だったり、心理の動きの科学に宗教が先んじて近づいたもしくは、その成果をとりこんだのか、現代の神学になってます。
服従と自由意志についての話も、理不尽さや人間をとりまく世界との関わりについての話になってて面白い。

ハウツー本くらいの気軽さで読みだしてよし、宗教本じゃなくてあくまでも岩波現代文庫なんで、安心して読んでいい一冊です。
いやーすごい本だった。書いてあることが初めて読んだこと。といっても別に信仰に入るとかじゃなくて、大命題を覆してまでも生きていく、信じるという力を感じて本が面白かったです。肌感覚わからないけど、やっぱりこの人異端だったんじゃないかなあ。

余談
最近読んだ永井隆の『ロザリオの鎖』http://www.aozora.gr.jp/cards/000924/files/54870_48035.html
長崎に原爆が落とされたのは信仰厚さ故の神のご意志である、っていう慰霊祭祭詞が採録されてるの読んだんで今回の本とは真逆。理屈も何もかも飛び越えたものが信仰でそれこそが人間の証って雰囲気。これが私の知ってる宗教のイメージ。苦しみの意味と信仰の答に、真逆の言葉があるということに、感想がうまくでてこない。
ちょっと思うのは、自分の自我の強さの度合いで苦難の支え方変わるっていう気もする。