『台湾海峡一九四九』龍 應台 訳:天野 健太郎

中国内戦の1949年の台湾の人々を中心に話を聞く著者。エッセイともルポともつかない文体でして、大量の物量は全て著者が聞いた誰かの話か私の話。主観である、と著者は再三書きます。
ちなみに著者は女性。自分のドイツ国籍の息子に乞われて自分の話をすることから始まって、知らない歴史を著者自身の足跡で読者は辿り、インタビューに応じた人、その話にでてきたどこかの誰か、軍隊、勢力、国、土地、何層もの足跡で書かれる大きな物語です。

そして、誰かがする話一つがかけがえが無いものだと同時に、極めて悲惨で残酷なんですがそれらが等しく当たり前のことのように超大量に語られるんで、麻痺してきます。ものすごい。突然にして大量の死、とりかえしのつかない離別の日常。
話に出てくる人々の範囲は狭さと広さを兼ね備えてて、台湾人、その中でも本土から来た人、台湾先住民、中国本土の人、日本人、アメリカ人、ドイツ人…
そして今は老人で昔子供だった人の話、その思い出の中の老人や大人たち…誰彼が曖昧になる異様な感覚ありました。
プロパガンダや思想はなく、あくまでも誰かの自分の思い出だけが語られます。
中国の国共内戦で台湾に来た人も、台湾から渡った人も同じく境遇そっくりな少年兵たち、台湾先住民の兄は日本軍に入り、その数年後の兵士になった弟は国民党に入る…国民党兵が共産党の捕虜になったら帽子を変えられて向きをくるりと変えてそのまま昨日の味方に攻撃など、人が余りにも簡単に入れ替わる。一体私は誰なのか。
国と思想のあやふやさに驚きます。老人が子どもだったころの話、その子供が見た6歳の子供兵の話、乳をやりながら従軍していた共産軍の女兵士、老人…、兵士というイメージの年齢や性別の境もあやふやになり、勢力の交代に怒る祖父と喜ぶ父とそして見ている僕…時代も曖昧になり、アイデンティティーなんていうものは幻としか言いようがない。どの思想でもどの国でもどの時代でも大人でも子供でも、人はどんどん入れ替わる。どれも象徴的でした。1戦で11回も補充(130人の部隊で半数が戦死すると補充)をした軍なんて、その実体なんてものがあるのか。

中国だと即禁書になり、海賊版が売れに売れまくったとか。出版後の経緯書いた後書きもすごく面白かったです。
著者の労力、筆力、バランス、支援されたプロジェクトともすごくて、そうそう無い本だと思います。
この手の話題の本って責められる側だと読みたくないし、責める立場のものは作り易いみたいでどこか娯楽じみた物になるんですが、この冷徹にしてユーモアのような温かみ感じるようなフラットさ故に、読めます。


今年はいろいろ戦争モノ読みました。学校教育的な「戦争は嫌だよくないことだ」という結論ありきが今までは壁になってて、戦争よくない!という正しい答をすでに得ているから、そこから先には行かなくていい、という聖域じみて踏み込んではいけない感ありました。でも答から覚えてもダメだね。こうしたディティールの積み重ねを読むと自分の人生とあんまりにも自分と地続きで、こんな人生になっちゃうのは嫌なもんだよ。しかも、時代や情勢としか言いようがなくて、どこにも逃れるところがない。どうしようもなくなっちゃうのは嫌なもんだよ。