『すべての見えない光』アンソニー・ドーア 藤井光訳

!CAUTION! よくないっていう感想です。



好きな人には悪いんだけど、これは三文小説では…。
美しくはあるけど、文学枠じゃなくてエンタメ枠だなあ。クレストブックスだったもんで、宣伝の具合でちょっとわからなかった。
ヴォネガットの後にもってきちゃったのがあかんかった。一応全部読んだけど普通の小説が、普通であるゆえにひたすらにかったるい…

アメリカスタンダードの戦争モノエンタメのよくできた巧い小説ではあるんで、そのうちヒューマンなかんじでハリウッド映画化するでしょう。たぶん。ヨーロッパは絶対これ原作じゃ作らない感。あんまりにあんまりだよ。
戦争を、戦争モノのストーリーの小説にしてよいのか。創作にしてよいのか。それを現代に生きる作者がしてよいのか、という欺瞞をつきつめた『HHhH(プラハ、1942年)』

いかにもそれらしいが、まったくのフィクションだ。ずっと前に死んでしまって、もう自己弁護もできない人を操り人形のように動かすことほど破廉恥なことがあるだろうか!

を読んでしまった後だと、どうにも。
いくらナチスだからって、腸のガンで股間の痛みに耐えるなんていう人間貶める設定は冷めるよ。もしも肺結核で熱に浮かされてたり白血病で死期が迫ってたらキャラ違うっしょ?40年前の本『隠喩としての病い』曰くの、その病にかかることのスティグマを、敵を描く作劇に使用する感性はちょっとなあ。大昔のハリウッド戦争モノ映画と変わりやしないの。

『すべての見えない光』の作者の技巧はとても高いと思う。だから、この感想はある意味お門違いなのだけれども、こんなことしていいのか、アメリカ基準の面白いストーリー、面白い小説にしちゃっていいのかっていうところで、『HHhH(プラハ、1942年)』読後だと躓いてしまう。

トドメに直前読んだのがヴォネガットだったってのもあります。完全に食い合わせの問題。
ヴォネガットの現実をフィクション化することへの露悪的なまでの自覚と、現実がフィクションを超えることに、感受性が引き裂かれるような本(たとえば『スローターハウス5』:著者が実際に体験した4万人〜が死亡したドレスデン爆撃を、SFのギミックで描く)読んだ後だと。

こういう戦争描写は、娯楽枠、ジャンル枠ってあからさまに表明して楽しんでるゲンブン先生のミリタリ漫画とか、そういうレイヤーじゃないとダメな気がする。なんだか後味の悪い読書になってしまいました。連想やイメージの感覚はとても美しいのだけれど、内容がファンタジーならこの美しい文章を楽しめたのにというところ。


あと、作中に出てくる小道具の『アメリカの鳥』っていう本は、とてつもなくデカい本でマジで畳くらいあるんで、??とかしながら読んでました。縮刷版かな。

お値段453万円、縦幅は1メートル! すべてが規格外の本『アメリカの鳥』とは
http://www.excite.co.jp/News/bit/E1417666016211.html