ローカルな話。田谷洞窟の保全プロジェクト

子供の時に、この田谷洞窟に入ったことがありまして、なんかあと2日なんだけど全然知られてることじゃないっぽいので。

あんまりメジャーな観光地ではないですが、ものすごく広い洞窟でした。お寺も広め。近くに、山肌に個室が連なる料亭があって、面白かったです。たしか近くに、スーパー銭湯的な場所もあったような。

鎌倉時代から継承する「田谷の洞窟」を3DスキャンをしてVRデータ保存したい!!
https://camp-fire.jp/projects/view/18916

自分が生きてる時代のうちに、想像もできない大昔からあって、これからも永遠にあるだろうと疑わないような、巨大な石でできた物が崩れ去ろうとしているという驚き。
現在進行形で時が経っていて、自分の生きてる時間と破壊の過程が重なることの驚き。

そして、それを残すという手段として、VRがとられたという驚き。
3次元→2次元で、次元超えちゃった。再生デバイスによっては限りなく3次元だけど。
SF短編の「ウェディング・アルバム」(幸せな時間を記録したVRの中の登場人物が、VRの人物だと知らされた上で、現実や他のVRの人物と同様の人権で扱われることに戸惑う話)みたいな、それでいいのかっていう発想に思える。実物を修理するのではなくて、今現在の状態を記録する。
もちろん本物は壊れていく。
記録されたVR洞窟とは、本物の洞窟は違ったものになっていく。
いいのか悪いのか、私には、SFを読むように判断の埒外で、そういう手段が選ばれたという事実。
否定するんではなくて、初めてこういう問題を見るので、純粋に驚き。

卑近な心配でいえば、VRのフォーマットだったり解像度だったり、こういうことに完璧ってないんですよね。記録のフォーマット問題って本当に難しいんで。人間のミスも必ずあるし、どんなにも努力しても、現実からデータになった時点で、拾われない情報が必ず存在する。
でも、それは経年で洞窟が壊れて存在しなくなることと、何の違いがあるのか。
洞窟が壊れて存在しなくなったときに、このVR洞窟が現実に依拠してなくても、情報が不完全でも、意味があるのか。
洞窟の中の印象的な思い出の、ひんやりと冷たい空気、暗さ、岩の手触り、足音、反響するどこからか聞こえる水音、空間の閉塞感…そういったものはVRにはない。もっと単純に、図面など文書による記録とは何が違うのか。情報量はもちろん違うので、その差分に意味を見出すしかない。

『アルバムの家』、女性建築士の団体の会員が子ども時代に住んだ頃の家を図面化してその思い出の文章を添えたエッセイ集みたいなのを、ふと思い出しました。どれももうすでになくなった家で、完全な記録ではもちろんない。けれど、空間や時代を、読者である私は印象的なものとして、読者なりに受け取りました。
意味がある。アルバムに戻ってきましたが、アルバムなんですよ。記録は慣例とも惰性とも習性とも、とにかく人間何千年もやってることなので、記録する行為自体の意味は、問わなくてもよいかもと思いました。