読書感想文 べろだしチョンマのワールドエンド

コンビニで泣ける本みたいなのあってウッカリ立ち読みしたべろだしチョンマ。読んだことなかったんだよね。

あらすじ
貧しい村に住む長松は、三歳の妹の世話をまかされている。手のあかぎれがいたいと妹が泣くたびに、べろを出して笑わせる。ある日父親がいなくなり、お役人が母と長松、妹を捕らえに来る。父親は貧しい窮状を直訴したのだった。直訴は叶ったが、本人と家族は磔の死罪にとなる。刑場に引き出され、父母が磔になり妹も縄を打たれて泣き叫んだとき、長松は妹にべろを出した顔を見せて笑わせ、死んでいく。その後、一家を処刑した跡地にはどこからともなく、べろを出したおかしな顔の人形が供えられたという。



まずは怒りを覚える。
子どもの死を招いたこの父母へ、そして家族の全滅を見過ごした村という共同体への怒り。そして村を追い込んだ体制への怒り。だがそれよりも、子どもを道連れにした父母へ嫌悪を感じてしまうのは、児童文学として書かれた体裁から、私の視線が子どもからのものになっているためだろう。
年若くして死ぬ兄妹を哀れに思う心よりも、親という運命の支配下にあって一人では何もできない無力さを、わが身のことのように感じて一層閉塞感を増して苦しい。
だがこの無力さは連鎖する。読み手が子どもなら、子どもを哀れみ、大人ならば、子どもの未来を犠牲にせざるをえない大きな制度へ・・・
どこに自分を投影するかは読み手次第だが、運命に抗えず滅びる中で輝く瞬間を描いていると思う。

ここで思い出す書籍は2冊。
まずは『子午線の祈り』。大きな流れとしかいようがない、人智の及ばぬ運命の渦の中で滅びていく平家一族を描いた演劇。
そしてフランクルの『夜と霧』。絶滅収容所で死を待つだけの日々をすごす中、奇妙に純粋な幸福に至った人間。絶対の不幸から逃れられなくなったときにだけ生まれる幸福。

世界の終わりの前日にも子どもは生まれるし、人類絶滅の当日にも笑える出来事もあるだろう。


生の正体は本当に何も無い虚ろで、未来は運命の気まぐれの死で満ちているだけ。
幸福に至ったとき、怒りは意味を成さず、矛先を失う。それはこの不快極まりない怒りというストレスが生を維持し勝ち取るパーツだからだ。生きることができない状況では必要ない。
生から離れて死の準備として幸福があり、生きて怒りと苦しみに苛まれることが、人間の機能だということはなんとむなしく残酷なのか。
死と絶望が、人間のあがきやそれまでの人生とは関係無しにやってくることを、諦めた先でしか幸せにはなれない。

あともう一つ。
べろだしチョンマが人間賛歌として消化できない居心地悪さは、絶滅収容所の子ども部屋の壁に描かれたおとぎ話の絵の写真見たときのような。悪意ではないけど、なんかイヤーな気分。なんだろうね


まとまらなかった。セルフで北斗有情拳でも打てるように進化しないとダメなんじゃないだろうか。これ教科書にあっても手も足も出なくて困るよ私。小学生から北斗神拳の修行しろということなのか。