『したきりすずめ』のじいさんバッシング

30年前に私が読み聞かせてもらった『したきりすずめ』のテレビ絵本。今読むといろいろつっこんでしまい、それを夫に話したら「まるで男が全部悪いみたいじゃないか」と泣かれたので、書いた物を他者の視点で読み返してみたら理解できるかもと思いまして、書き起こしてみます。


むかしむかしあるところに、びんぼうなおじいさんとおばあさんがいました。おばあさんは、おじいさんを、少しでも働かせようとしていました。

なんで正直じいさんと意地悪ばあさんが夫婦なの?普通、正直なじいさんばあさんに対して、意地悪爺婆ときそうなものを、いきなり夫婦間で対立してました。なんの寓意だ…
このおじいさんは決してナマケモノというわけではなさそう、だけど貧乏。正直じいさんなのです。正直で毎日休まず働いていたからといって、現状に対して、労働を楽にしようとか、将来もう少し畑を大ききしようとか思わない、無欲な正直人生を送るうちに、少しずつ損が積もって、年くってもはや何をするにも遅すぎる脱出不可能な貧乏暮らしをしているのでしょう。それをよしとするじいさんと、欲深く働かせようとするばあさんもとい、もうちょっと楽したいばあさんにすでに肩入れしたい気持ち。この話、ばあさんも一生懸命働いてるからね…

不機嫌なおばあさんにため息をついて、おじいさんが出かけていく冷え切った夫婦関係の冒頭から一転、芝刈中におじいさんがカワイイ子雀を拾います。「チュン子」と名付けているのでたぶんメス。
おおっとここでメスちゃんきたよー とか、女子的には覿面にじいさんに冷めるわけです。
おじいさん、カワイイ若い娘か子供かに癒されてるわけよ。この夫婦に子供がないことを乗り越えられなかったことも、冷え切った夫婦関係の一因だと思っちゃう…これはばあさんだけが問題ではなく、二人でなんとかしないといけないところをこの夫婦はできなかったわけで、持てなかった子どもの代理、もっとうがった見方をすればじいさんの愛を一身に受ける若い娘に、案の定おばあさんは、チュン子には辛くあたり、チュン子に米を与えるじいさんを、もったいないことをするなと嫌味を言います。
でも、貧乏じいさんが貴重な食料である米をチュン子にあげる、たとえほんの少量で経済的な打撃が無いにしても、節約したいとか態度ってもんがあろうにばあさんの心情やいかばかりか。


そんなある日、おじいさんは山へしばかりに、おばあさんは川へ洗濯に行きます。あろうことか、チュン子はおばあさんが用意した洗濯糊を全部食べてしまいました。これ、一行で流すにはわりと重罪ですよ。
GUILTY!
時代はよくわかりませんが、糊は加熱した米粒をすりつぶして作ります。つまり、この糊を用意するために、ばあさんはカマドに火を起こして、水を汲んで、米を炊いて糊を作ってます。
あと、洗濯糊を使うような洗濯っていうのは、いわゆる和服の「洗い張り」という着物の糸を全部ほどいて板に張って糊を付ける用途と思うんですが、川まで洗濯道具全部持ってきて、ほどいちゃった着物を前にもう一回やり直しってキツイ。
且つ、こんな貧乏なじいさんばあさんが洗い張りするような着物を持っているとは思えない、でもばあさんは洗い張りができるってことは、おそらくは昔から持っていた着物を大事に使ってるんであって、ばあさんは洗い張りする生活レベルの家の人だったんだろうなあ、没落したんだろうなあということを穿ってしまいます。じいさんまじで甲斐性無しではないか。
ここは、障子の糊っていう話もあるので、まあまあおいとくとして、とにかく糊を食われたことに怒り狂ったばあさんは、チュン子の舌を切って追い出してしまいます。
労働するばあさんVSじいさん癒し要員の若い娘の家事妨害、という敵対構図が無情。


じいさんは、悲しんでチュン子を探しに出かけます。おまえ今日の労働はどうしたよ!とばあさん並みに働かせようと思わないでもないですが、雀のお宿でじいさんは歓待を受けて楽しい一時を過ごします。そして、別れ際に大きなつづらと小さなつづらのどちらかを選ぶように言われ、自分は年寄りだからと小さなつづらを持って帰ります。さんざんじいさんをこき下ろしてきましたが、身の程をよく知っていて、自分のできることだけをしようとする、そして今この現状に満足して幸福を見出す人なんです。それが正直もの。信心深いとか、物語の中で報われる性質です。物語の中だけでな。
そして、じいさんと子雀だから婉曲ですけど、家庭不和からよその女に甘える男ですが、これは許されざるよ。
持ち帰った小さなつづらからは美しい布がたくさん出てきました。でも、欲無いんだから、この宝物もなんかそのへんの人にぽいぽいあげたりしちゃうんじゃないかな…
せっかく持って帰った宝物も持ち腐れで、変わり映えのない生活するように思います。話を聞いたばあさんは、「なんで大きなつづらにしなかったんだ」とすずめのお宿にすっとんでいきます。
欲深い!
でもその一言って、今までのじいさんばあさんのすれ違う価値観の夫婦生活の総決算的な意味合いがあるよね!わからんでもないよ!!


結末は、この絵本言い回しがしゃれていて「よくばりはほどほどにね。」となっていました。このシリーズ、今の絵本と違って、会話の毒とか、誰か死ぬとか、血まみれになってしまいました、とか他のお話も結構原型に近いようなストレート描写なんですが「ほどほどにね」。30年前の時点でこの解釈。深い。
正直じいさんと、欲深いばあさんの子無し夫婦の、長年連れ添ってきた慣れの果て。じいさんには正直ゆえの代わり映えのしない毎日に訪れた一時の幸せな夢でしたが、ばあさんに起きたイベントはなんだったんだろう。この貧乏生活をあきらめて受容することになるイベントで、人生の終盤に平穏が訪れたなら、めでたしめでたしなんだろうか。そして正直じいさんとの夫婦生活も、身を粉にして働きながら、それなりに穏やかに終わっていくんじゃないだろうか。
じいさんは、雀のお宿をまた探すだろうか。でも二度とたどり着けなかったような気がするなあ。


・・・というようしょうもないじいさんバッシングを、文学に昇華した作品はこちら!もうすでに、70年前に完璧なやつあるじゃん!

太宰治御伽草子』舌切雀
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/307_14909.html

さて、この舌切雀の主人公は、日本一どころか、逆に、日本で一ばん駄目な男と言つてよいかも知れぬ。

さらに、ちょっと違うんだけど、じいさんにイラッとする女は私だけではないようで、大分強引でウケる。
三浦綾子原作「したきりすずめのクリスマス」
http://pascal-davidjunker.blogspot.jp/2009/12/blog-post.html

「じゃが、ここに私がおるじゃありませんか。したきりすずめのおじいいさんは、よくのない、やさしい人間だとむかしから言われておりますぞ。この私につみなどあるはずがないではありませんか。」
エスは、おじいさんをだまって見つめ「そうでしょうかねえ。」と言いました。