『神経ハイジャック――もしも「注意力」が奪われたら』マット・リヒター

最後まで読むと、予想外の読後感になりました。最先端の知識をストーリー仕立てで楽々吸収、っていうかんじで読みだしたんだけども。

科学的事実としては、この二つを強力に立証します。

・人間の注意力、意識を向ける力の限界は、19世紀くらいから研究され続けている結構古い科学。戦争中、どうして兵士がボタン押し間違えたりレーダー見落としたりするのかっていう、ミスの解明は重要な研究だった。行動心理学と、脳科学が融合していく。
人間には無限の能力があるのではない。機械より処理は遅いし、マルチタスクではなく切替なので、物事を複数同時に行うこと(たとえばテレビ見ながらスマホ)には切り替えコストがかかっており、その分他の能力が低下し、現実の認識や記憶への定着も低下している。

・双方向、ソーシャルなつながりへの強力な欲望が、基本設計として人間にはあるので、生理的に抗えない。ごく自然の営みとしてデバイスへ注意力が常に割かれている。だから運転中の携帯電話は危ないとわかっていても、電話をするし、受け取るメールは気になるし、無意識に続けてしまう。

テクノロジーの害、という立場の本でして、具体的にはながら運転の交通事故をなくしたい。私は機械が大好きなんで、新しい機械がこの世にできたから原因に加わるのは当たり前、くらいのちょい批判目で読み進めてたんですが、ちょっとお菓子食べたり、ラジオを聴くのとは違って、携帯電話っていうのは飲酒並みの不注意にするほど強力な阻害要因であるという話でした。メールも、通話も、ハンズフリーも関係なくて、「双方向のソーシャル」っていうのが、依存性の快楽と、脳のタスクを大幅に奪っちゃうんで、やばいらしい。
日本でもスマホゲームしながら交通事故っていうのが昨今よく報道されますが、悪い人がゲームして事故るんじゃなくて、人間の意志力ではどうにもならない領域なので、飲酒運転なんかの運動を参考に、強力な罰則、啓蒙活動の2本立てでなんとかしないといけないよっていう結論です。
常時ネット接続、即時にソーシャルがクールという風潮だけれども、人間の能力的にそんなにうまくいかないよ、その分犠牲になってるものがあるという話。
嫌な話だけど、デバイスを持つことで人生変わる、ある点では人生の質が悪くなってる、という推測は容易に成り立ってしまう。

で、結論としては上なんだけども、ある交通事故を巡って、ゴシップみたいな人間ドラマと科学知見が交互に挿入される構成なんで、大部だけど飽きない。アメリカだけあってドラマパートがハードスキャンダルで面白いんだ。余談ですがトレーラーで材料の鋼鉄何十トン持って牧場回る蹄鉄工なんていうダイナミックな職業あること知れました。アメリカすごいな。そんな面白話はいくら続いてもノーカンってか、科学パートまで読む勢いつくようになってる構成。そんな始まりのドラマ部分なんですが、この新しい重大過ぎる罪について、人間はどのように向きあったのか、このテクノロジー黎明にそれが危険だという認識もなく、無意識で起こした罪への贖罪はどうしたらいいのか、被害者、加害者双方に取材してるものすごい本でもあります。加害者にも。私は罰と真実がセットという感覚でいたんですが、加害者も人間なんで罰に怯えて真実にいたらなかったりするよな、とか欺瞞が人間を守ると同時に苦しませることとか、考えさせられます。人間パートは結論にはなりません。宗教さえ「効く人もいる」という話であって回答は出ない。
運転中に携帯やめるなんて簡単そうに見えて実は意志でどうにもならないことで、どうしようもなく見える人生の危機は考え方で変わるところもあるっていうぼんやりとした対比でもあり。

面白く読める本だけども、得るところも大きくていい本でした。この手の本、科学者本人が書くより、やっぱり記者が書いたほうが面白いんだよなあ。