ゼノギアス 20周年コンサート

2018/4/7夜回に行きました。2000人キャパ劇場×4公演なのに、チケット入手が大変難しくてネット騒然、20年前のプレステのRPGの作曲者プロデュースコンサート。お値段も8800円〜と、オーケストラフル編成でもそうそう無いくらい高額だったんですが、友人とチケット作戦会議してて、20年前の100万本近く売れたゲームで、今みんな金持ってる30半ばだったらヤバいだろってので、複数当たったらいさぎよく複数行けばよしと、最大口まで申し込んで運よく1つ当たって参加することができました。相当運が良くて2,3年分運使い切ったかもしれない。


オーケストラ編成+リズムトラック+ギター+ベース+ピアノ
ここまではゲーム音楽再現だとわりとあるかんじの編成なんですが、そこにゼノギアス民族音楽特有の、
ケルティックハープ+ケルティックのリード各種+アコーディオン
極めつけが宗教的なテイストがある音楽のために
・本場アイルランド古楽再現合唱団 ANUNA(Uはウムラウト
そしてテーマ音楽を20年前に歌発注した
ケルトの歌姫ジョアンヌ・ホッグ

20年前の歌手ですよ。生身の人間の20年だぜ…どうやって揃えたんだって言う奇跡の大編成で、8800円は当然ってか安い、ものすごいコンサートでした。伝説になるでしょう。

とにかくすごかったのが合唱。今も耳で聞いたものが信じられない。ゼノギアスといえばブルガリアンボイスも印象的なんですが、それとも違う、野性味のか生々しい声や、宗教音楽のように透明な器楽と化したり、それが一糸乱れず集合した男女の混声で表現されるので、とんでもない合唱。
人間国宝とコラボで来日とか、そういうステージの企画で来る団体なのに、たかがゲームのやっつけ仕事じゃなくて、このステージにちゃんと関わってくれてて、演出してくれることにまず驚愕でした。後ろに一列に並んで歌うわけじゃなくて、ステージ上でオペラのように男女を意味する掛け合いやってくれたり、半円のステージをゆったり曼荼羅のように動くマスゲーム状の演出や、回転する舞台での配置もあいまってものすごい陶酔感。物語をコンテクストに持つ、ゲーム音楽の一つの究極でした。
ゼノギアスは物語の中で宗教や信仰心が描かれますが、和製RPGの文脈ではわりと信仰心は否定されがちな風潮を、個人を確立するものの一つとして、かなりまじめに描こうとしてる作品だったと思います。で、本場の宗教音楽の人たちでやるんだもん。ものすごい拡張が顕現しました。

会場が独特で、擂鉢型の半円形のステージを、一体にする照明がものすごくて、宗教音楽やってるときは、ほぼ宗教っていうか全体主義の儀式で、ヤバイくらいの集団の高揚が感じられて、これやってもいいのかっていうレベルでした。
ともし火を持った合唱団のメンバーが劇場上部から、ゆっくりステージに歩み降りていって、最高潮で集合する。集合する歌声。
回転する舞台から照射される光で、合唱団のメンバーの影が大きく広がって会場の壁に、大きなゆったりとしたリズムで流れて……
私の席がステージ近くではなく、会場の上のほうだったので、照明演出が会場全体を巻き込むのが見えて本当にヤバかったです。空気が本当に変わる。一体感の渦ができるのが見える。みんな席について動きもしないのに。怖いくらいの体験でした。人間こうなる。これは場に参加してよかったなあ。

スクリーンに、曲によってはゲーム画面流してくれたりするんですが、これもね、20年という時の結晶作用で、壮大な音楽に対してチープ(といっても今見ても非常に綺麗な3D)な画面の恥ずかしさとか、もうそういうもんじゃないんですよ。ここに座ってる何千人が同じ場面見て同じ音楽聴いて涙してたとこなんだもん… みんな一人ずつで体験したことを、一体で感じるってマジ宗教でしたわ。映像だけじゃない演出が、ゲームを知り尽くしていて、つまりこの会場にいる人を知り尽くしていて、ものすごく揺さぶられました。もし映像見る機会があるなら、ネタバレがもったいないのでここでは書かないでおきます。

オケは、ステージなんだからなんの恥ずかしげも無くフルスロットル編曲で爽快。最初、スピーカー入るってわかったとき、ちょっとガッカリしたんですよ。でも、すさまじい音圧と、シンセトラックや合唱配分してるのに、ストレスを作らないという魔法のようなパーフェクト音響でした。なんでこれが聞こえるんだっていう粒立ちと、音圧が同居してて、こんな音響あるのか…。

そして、ジョアンヌ・ホッグ。歌が本当に美しくて、巧いとか昔の録音をコピーして歌うとかそんなので十分満足だったのに、歌を歌う人がここに立つ奇跡のような時間でした。生身の人間が歌ってる、すごい歌。
クラシカル、ジャージーだったりソウルフルとか、そういうジャンル音楽に分類できない。人間の人生のいいところ半分みたいな、20年という歳月なんですよ。しかも20年前日本のゲーム音楽の単発オファーですよ。そんな条件、自分らしくない仕事だったんじゃないかとか、英語歌詞も変だったんじゃないかとか、ゲーム音楽なんでアカデミックに優れているわけじゃない…とか、聞いてるほうが心配になってるところをこれでもかと。
生きてて良かった。


生きてて良かった。会場出るときほんとそう思いました。
物販列が地獄のように長くてパンフレット購入も諦めようと思ってたんですが、もうあんまりにも素晴らしくて並んじゃったよ。がんばった。客が多いので、物販、資料展示なんかキャパオーバーの気があって、目的がかなえられなかった方も多いと思うんですが、でも、でもこの音楽のステージに立ち会えたことが本当によかった、そんなコンサートでした。コンサートってかんじじゃないな、総合芸術ステージ。伝説だなあ。生きててこんなことあるなんてなあ。
4/30まで配信もあり、パッケージ化されるかもしれないとは思うんですが、これは、場に立ち会うことがとにかくすごい体験だったので、本当に参加できてよかったです。いやー…生きててよかった。

『想い出の作家たち』文藝春秋編

作家の親しい人に、故人を語ってもらう。息子、娘、妻が持ってるエピソード。作家って、すべからく変人なので、社会的な価値どころか一番身近な人間と、トラブル起こしまくってるんだけど、それを超える愛。双方に。人間が違うんだ。今と。取り上げられている作家が明治生まれなこともあって、もう明治男の横暴っていうか自由さすごいよw貧乏の底抜けもすごいし、男は傲慢横暴、作家なんで病弱でひねくれてるあわせ技だったりものすごい困難な人生なんだけど、でも、周囲の人間が幸せを語ってくれる。

流れる星は生きている』の藤原ていが、話者に入ってるのチラッと見えて、あの困難過ぎる道行に不在だった夫と、帰国後の関係どんなだったか怖いものみたさで読んだんですが、すごいの。人間が大きいとしか言いようがない。藤原てい自身が、ものすごく強い自立した女で、個人として愛してるんだ。明治男には言って確認する必要もない、自分が好きだからいいんだっていう。あんだけ苦労したのに。すごいなあ。犠牲ではない。すごかったなあ。

なんかよかったなあ。みんな子供が小さかった頃の思い出話が、本当に幸せそうで、今自分が人類共通のボーナスステージにいるんだなと思います。

『映画の見方〉がわかる本 ブレードランナーの未来世紀 』町山 智浩

ブレードランナー話読みたかったんだけど、これ前作の1950年代を評論してるやつ読んだ後のほうがいいやつ。

町山さんといえば、ネットでたくさんラジオの映画レビューが読めて、くすぐりたくさん入れてパーソナリティーと軽快に掛け合いするスタイルに慣れ親しんでるんですが、文章媒体では落ち着いた筆致。テンションは高いんじゃなくて、硬く緊張しててすごい面白かったです。深刻。知ってる映画が多いんだけど、制作背景の膨大な知識といっしょに、アメリカその時代のなぜ?を解説してくれる。

広く商業的成功を目指すメジャーシーンの映画を主に取り上げているのに、作成者が意図するところはすごく狭くて個人的な理由に帰結する。80'を作家性の時代っていうワードでくくった評論集です。わりきれない不思議な印象を残したままにしてしまう個人的な作品を、商業媒体で成立させる映画ってメディア形式そのものがワンダー。どこに命がワンダーが隠れてるのか。
監督自身の内面を、自分よりも映画を見た人間のほうがよく知っている、監督の露出プレイ。セクシーだよ映画ってやつは。

『中動態の世界 意志と責任の考古学』國分功一郎

「シリーズケアをひらく」のレーベル・・・ちくまorみすず書房or岩波新書で見るかんじの本。同じシリーズの六車由美さんの民俗学の本は、著者が民俗学者→現在介護職だから、介護職実録になってて、例えば利用者への声かけにトイレと言わずにその地方の方言のトイレを表現する単語を使うとか、このシリーズに入る意味も即効わっかるー。という本だったんですが、この本は難しい。ケアに直接すぐには役立つ本ではない。っていうかわりと小難しい本に入ると思う。大学受験の問題文にそのうちなりそう。
でも、人間観っていうすごく大きいところで得るものがあると思います。
健常とみなされるもの以外すべてに。

ただほんとに結構むんずかしいのよ。図書館で何十人待ちだったけど、なんかサクっと回ってきたもん。
終盤257pで大爆笑できるのでそこまでがんばって読んでほしいです。私は報われた。挫折しそうなときは、これがカツあげされる人を説明する話だったことを思い出そう!
言語史ダイナミックで、言語雑学がみるみる一本につながるとても講義が上手そうな先生。なんで、最後だけ読むっていうのでは結論がわからないタイプの本なんで、がんばって。1講義ごとに丁寧に振り返りまとめをつけてくれるのが授業っぽい。

中動態という、能動と受動でも表現できないことって現実問題としてあるよねっていう話で、能動受動の言い方があるってことは対立の中心になるところに「意志」が有るか無いかっていう争点があると。
意志があれば罰していいのか、じゃあ意志が無ければ重大事件でも罰してはいけないのかとか、意志の有無で刑事罰とか決まるのが現在のリアリティですが、そもそも意志っていうもの自体が自明に存在するものじゃない。言語っていう大きなくくりで、能動受動っていう対立の形式現れるのが結構新しくて、もともと動詞は主体を必要としない名詞であり、ギリシャ語の諸作品に意志というものが欠けている話であること教えてくれて、能動と受動に優劣があると判断されること・・・中動態の消滅の歴史とはすなわち、意志という概念が存在するようになっていって重要だと見なされるようになってきた歴史。

意志ってまるで大事なことだけど、意志の介在しない時間が人間には膨大にある。それをすべて対立だけで表現する言葉があるっていう、今の世相があるんだけど、うまく説明できないこと多々あるわけで、そうではないもの、かつてあったもの、について考えてねと。

この本読んで、南米文学の超自然的、宿命的な行動をとらざるをえない人間たちや、私大好きフォークナーの権力への反抗と暴力とともに生きることが同居する人間とか、印象が新しく整理されました。すげえ本だ。
老夫婦晩年に息子が帰ってきたことを聖なるとしか言いようがない叙述で描く「聖母の贈り物」、能動とは言いがたい状況のうちに家族すべての死の引き金をひくおばあさんは邪悪なのか「善人はなかなかいない」、イーユンリーの描く政治と切り離せない生き方をする人々・・・、理屈からはみ出す何かに強烈に惹かれた作品たちが生き生きと思い出されます。
でも大学生とかで読んでもわかりきらなかったろうなあ。頭の中身の問題もあるけど、自分自身が若いくて体も大勢も無視できる意志振るう元気ある存在だったからなあってのが大きい。


言語の話題に浸ってると、つい思い出してしまう伊藤計画。言葉が人間が見る世界を作ることその逆をすごくドラマチックにフィクションにしてくれてたんで、生きててこの本読んだらきっともう一冊書いてくれたんじゃないかなあ。
屍者の帝国』なんか中動態の考え方がまさにハマるんだけど、中動態不在のリアリティとしての能動受動の鋭い葛藤のフレーム持ったまま、受容にいたったようなあとか。あとこの本の著者が言う文法はアンバランスで不整合な体系で人間の認識そのままにどんな言語自体も変化していく、というのと逆に、人間の原型、起源を言語に求めてる感とかあったなあとか。
殺戮器官の最初のほうの舞台もさ、共通基語が東欧であろうっていう知識だったのかなとかぼんやり思い当たるのでした。

『ダース・ヴェイダーとルーク(4才)』ジェフリー・ブラウン  富永晶子訳

今読むと面白いんじゃないかと思って買ったらさ…狙い通りでくやしいけどおもしろい・・・ リアル4才児かわいいし、不器用なパパもダースベイダーだからだから。育児漫画あるあるを、スターウォーズの親子で。ってことで仕込まれてる映画のオタク的ネタいろいろあるけどそれはともかく、パパが4歳児と遊んであげる1枚絵まんがの連作でスターウォーズ知ってる子持ちがニコニコ楽しむ本。あと少数派の、パパと男の子だけが出てくるジャンルの本なんで、そういうの読んで自己肯定感を高めたいパパにもいいだろうなあー。

ポプテピピック

私たぶんオタクだけど、どっちかっていうとゲームとかフィギュアのオタクなんで、アニメは作画評価の高そうなやつとかサブカル臭のするやつを1クール1本見るか見ないかくらいという鼻持ちなら無いタイプのオタクで、まあ終末のイゼッタとか百合枠は別腹だよ百合アニメ視聴は生きるための水分摂取みたいなものなのでノーカンノーカン、みたいなオタクの感想です。

食わず嫌いはまずは、OP見てその金と技術の蕩尽に恐怖。どこからこの金が湧いたのか。
ゲームオタクで作画重視でサブカル趣味で百合って言ったら、見ないで生きてく選択岐ないよね的な一本。でも、
やたら流行してるシーンに反発もあり、狙ったサブカル乙みたいな気持ちでスルーしようかと思ってたんですが、が、ゲームネタで好きなゲーム画面あったっつうんで見ました。あんまりにも面白くて一晩で11話まで… なんか明け方に1話増えてて、あーっまだこれ終わってなかったのか!とあせったりもしましたが、かといって次の話が待ち遠しいもんでもないんで、残り1話のタイミングでもう感想書いておきます。

リッチ過ぎてサブカルでは最早ない。垂れ流される金と、実績ある高度な技術を見ている時間だもん。
松なんかは業界内内輪だけど、こっちは文脈が美大。15年前の美大っていうか多摩美の金のなる木に結実っていうかんじ
美大の学園祭に行くのがわりと好きなんで、カラー的に芸大(100年先の天才)でもムサビ(エモさに走りがち)でも日芸(素人以上玄人未満)でもなく、マネー直結の多摩美ってかんじ(偏見)
高度な技術って、もうアニメ作画は地味なシーンも2D3Dなんかものすごい動いてるし、挙句の果てにはコマ撮やるし見るからに高価なんですが、アニメパート以外もAC部なんてアングラじゃなくて、今のNHKみんなのうたのヒットだし、紙芝居芸もメディアなんとか大賞もらったレイヤーダウン商業化よ。
あと何か映像ネタだったら、エモさを加味したAR風が来るとおもいます。(鼻持ちなら無いオタク風言動)ソフビ作るとか特撮で爆破とか昔ながらの伝統的なオタクがやりたがることは、あんまやりたいわけじゃなさそうなのはわかる。かといってファッションオタクではないんだけど、真に命を捧げているところはそこじゃない。


ゲームネタは30代オタクの共通認識っていうより、今の30代子供のときみんなゲームやってたから今のメジャートレンド。やってたのがマリオなのか忍者龍剣伝なのかってのは、後にどっちが流行したかってわかるはずもなく、レアゲーネタ持ちかどうかは人生の運要素だからレアゲーネタは、むしろありでフックになるところ。

ゲームネタさあ…私ギルティギア大好きだからっていうのが直接の動機で見たけど、これ懐かしのアーケード版一作目のX(2001年)のUIでめっちゃ厨二〜〜〜… 今はもっと洗練されちゃったUIになったからこのバタくささがたまんねえや。今のシリーズUIはスタッフ曰くの鋼鉄感を薄めてある見易いUIなんですよ。という、確かにオタクが見ても非のうちどろのないエッセンス抽出でした。たしかに、やってる人しかわからないところを、偽モノではなく本当にわかってる〜
コンビ声優召喚でまだじょうじ&草尾のGGをあきらめてないぞなあと1話。でもアーク枠は杉田&中村でBB、あんきら枠こと新紗夢&ジャックオーで使い切ってしまったような気もする… あれ二つもやってれば十分じゃね。というか、アークキャスティングが旬声優ってことなんだけど。

メジャー過ぎるガンダムでもなく、かといってネタに走り勝ちなイデオンやザンボットでもなく、マイナーくさいレイズナーってのが、これ30代は多分けっこう見てるんですよ。00年代のネットで30代は!
もっと言うなら、レイズナーだけ簡単にyoutubeで違法動画が見れたんじゃなかったかな! 明文化されないアンダーグラウンドが、知ってる人はわかるっていう… 
30代100人に聞きました、ひみつにしとくから教えてレイズナー見たことある?何の媒体で?って聞きたいです。


この手の作品のパロディを、ネタ解説を見なくてもほとんどわかる、ターゲット年齢になってるのが初体験でした。
古くはゆうきまさみのぱろでぃに、ヒラコー以下略みたいに、パロディ作品って、上世代の文化を垣間見るものだったから…
数年に一本こういうナンセンスギャグ(死語)は経験してるので、同じような系譜で今はもうおなかいっぱいかなと思ってたんですが、今回違うのはピンポイントで狙われたところ。狙撃。
世代的に作り手が40↓なんで、80〜90’がメジャートレンドで、ポプテ見てる小中学生は親世代のネタを見てるってわけ〜 そこには一般的/レアとかメイン/サブカルチャーの優劣はなくて、並列。
批評的にとらえれば、メッチャシミュレーショニズム極まれりで、代替可能な無数ともいえる関係性をシチュも声優も並列して見せることが独自のアイコンの確立になるっての戦略的なのがサブカル臭〜ただし金と技術はある。OPで言ってるとおりよ。複製ことリメイクの果てに意味を見出してるサブカルだったです。はい。サントラほしい。いやマジで80’だからシミュレーショニズムでいいのか…
ユリイカでポプテ増刊が来るに1000000W$。サブカルゥー


とにかく、リッチ極まる映像で、今が置き換わる金銭ゲイン最大そうなたしかな価値を視聴してるようなもので、今30代の人は、今放送してるっていうタイミングで見ると、人生の果実の収穫的なイベントになるので、見て損はないかなとか思いました。
これ見て反発できればまだ若い。まだ未来がある。もう私は過去に追いつかれてしまったのだ・・・


オタク的にはアイドルソングを、アイドルP男声優二人に歌わせたバージョンが一番好きでした… グッときてしまった。サントラ買う。
そんなことはさておき百合成分摂取の目的にしても、百合味は刺激的なスパイスをまぶした表面の下に、切れることが仮定でも存在しない少女時代一瞬の絆のふかみあってたいへんけっこうなお味で、ときに哲学サブカル臭に通じる失われることが前提な永遠の絆的な百合の切ないネタ入れてくる(ような気がする)んで百合だよ百合これは百合アニメです。女の子二人がいるだけでも百合なのに、会話してあまつさえ仲良しなんて百合以外の何者でも無い。声優が若本とか玄田でも百合民としても今年ベストにあげたい百合。あいまいみーと似て非なるのは、男が書いた百合なんで不可侵の聖なる領域のいい百合。いい百合だった。オタクの結論は百合がよければすべてよし。

>追記
ポプテは俎上には上がらずに逃げ切った。最終話のクソアニメ感ある展開はクソアニメを再帰的つうか自己参照して全うしたのでよしと思いますクッソ

『セガ vs. 任天堂――ゲームの未来を変えた覇権戦争』ブレイク・J・ハリス 仲達志訳

いかにもアメリカのライター本的な文体、つまりドキュメントを劇的にドラマ再現したニュージャーナリズム文体で書かれるので、面白おかしく飽きないこと絶対です。巧い。
セガ社長はサイコな狂人だし、だいたい出てくる人間は元気過ぎる有能ビジネスマンで、まったく新しい概念のビジネスをトラブル乗り越えサクセスサクセス目指すんで、事欠かない戦闘的なエピソードを面白おかしく仕立てつつ、セガニンテンドー、そしてソニーのプレステにつながるゲームコンソールウォーズという一時代を描いてて読み応えたっぷり。

セーガー♪
日本でこの本読むのはセガのマニアだけなんでしょうが、本国では広く一般向け受容と思います。
なぜかって、アメリカではセガが勝利してポップカルチャーやってた一時代があったんだよ!!!!
まじか!
家庭の半数がスーファミじゃなくて、メガドライブアメリカ名はジェネシス)持ってて、お子様は毎週ソニックのアニメに夢中で、ニンテンドーよりお兄ちゃんたちが遊んでるそっちがカッコいいと思ってた時代があったのだ・・・まじかよ・・・クール過ぎる・・・
去年のレッドブルのWeb番組でゲーム音楽作曲者のシリーズがありまして、セガで一本あって盛り過ぎだろう贔屓され過ぎじゃないとかうれし恥ずかしかったんですが、そうじゃない、そうじゃないんだ。マジだったんだこれ。
RED BULL MUSIC ACADEMY PRESENTS DIGGIN’ IN THE CARTS

日本人だって、実は任天堂よりセガのほうがいいゲームでカッコイイのような気がしてるっしょ?そんなこと思うのはセガ好きだけか!ハッハッハッ(自嘲)っていうかんじですよねセガ。今この文読んだら15年ぶりの新作バーチャロン買ってね!副編集長が好きというだけで書かれたねとらぼバーチャロンがあと10万本は売れてほしいんですの記事でも読んで、セガ好き中年の仲間入りをしよう!

1970年代にアメリカで、コンピューターゲーム業界が生まれて1983に崩壊した後、第二波として一から業界作り上げたニンテンドー、そしてセガ・・・、玩具なり家電なり、他でサクセスしたビジネスマンがセカンドキャリアとして新業界でビッグチャンスに賭ける話。
湾岸戦争ニンテンドーウォーって呼ばれた時代、自分が子供の頃ホットだった文化。

セガアメリカの社長が主人公で、VSニンテンドー。カスも共存するコンピューター業界の自由な文化を退けて、ニンテンドーが支配した善い品質(という名の独占禁止法スレスレ)で統制された魔法のファミコン王国と、自由と逸脱の選択としてイメージ付けたセガメガドライブの侵攻。クールで自由でクレイジーな90年代アメリカを象徴するようなキャラクター、ソニックザヘッジホッグは、そうなるために作られて、ビジネスのがんばりで本当にそうなった歴史。ニンテンドーにお子様はくれてやる、それ以外の全部をいただき、後数年も経てばニンテンドーのお子様もこちらに来る・・・と。
で、
ここが肝心なんですが、アメリカではセガが一瞬勝ったんですが、日本では周知のとおり勝った時代っての無いんですよ・・・ ifを思わずにはいられない、ターニングポイントがあった・・・



ほんの数年間のうちに、子供とそれ以外にゲームやらせる文化創ったマーケティング戦争を描くお仕事ドラマ本でもある。物流、小売、それ以上にマーケティング。ニュージャーナリズムなんで、一回のミーティングが、一人の徹夜が、時代を動かすことに直結したかのようなドラマで描かれるのですごい面白い。
ネタとして有名な、任天堂ドンキーコング訴訟のあたりも、なぜこの弁護士が担当したかっていう経緯サラッとわかったり、これ以上無いほどマリオ映画がクソ映画になった経緯について面白詳細に述べてくれるので、マニア雑学にも大層よさげでした。当然セガにくわしくなれるし、スーファミプレイステーションの物別れから、後のプレステにつながるソニーも野望としてドラマチックに仕立ててあるので面白い。そして、ご存知のとおり現在につながる凋落したセガの顛末まで描かれるわけで・・・最終章タイトルは「ゲームオーバー」。

超個人的なポイントですが、携帯カラー機であるゲームギアのキラーソフトになり、一目で私が魅了された「エコーザドルフィン」がこの時代だからこそ生まれた産物で感慨深かったです。時代。
姫を救うとかいうんじゃなくて、ゲームにもっと壮大さを与えるためもっと本質的な探究・・・現世では生々しいから異界である海の人生・・・90年代のラッセン以前からのイルカヒーリングとかニューエイジとかそのへん、新しいじゃん壮大じゃんみたいな開発者のノリで作られるんで、何がクールだったか、何がニンテンドーにはない新しいもので社会への反逆だったかって反面で浮かび上がってくる。
エコーザドルフィン自体の詳しい記事はこちら↓ 
名作アルバム -『エコー・ザ・ドルフィン』- - セガ
個人的には、今風に言えば「エモい」としかいいようのないUIにしてラブアンドピースを一層進めた日本語翻訳版がパーフェクト。魚食べるとライフ回復っていう説明文を、「こざかなはおいしい」って表示する伝説的なローカライズ
つまり、そういう時代を抽出したようなイメージ全部に私は魅了されたわけです。


冒頭に、錠剤形をアニメキャラにしたビタミンC入りチュアブルお菓子を売る話が置いてあるのは、単にセガ社長の前歴というわけでなく、子供向けに物を売る行為そのものについての葛藤ドラマも一つの軸になっています。
ヒーローの人形を売るとき、それはただの合成樹脂の塊ではなく、壮大な物語と個人的な悲劇を背負ったキャラクターで、それこをそを子供は買ってるんだと。物語に値段をつけて売る話、いやXを売るために物語を作る話。Xはなんでもいいのか、子供に有害ではないのか、世界のために正しいのか、葛藤はいつまでもついて回る。

ゲームの残酷表現や下劣なストーリーを嫌悪しながら、ニンテンドーには無い選択岐として売れるゲームをセガから出すことは正当化できるのか。そう、ニンテンドーは悪役ではなく、動機はどこまでも正しく、家族と子供に良い物を、世界に善を届ける巨人であることは一貫して間違いなく、それがどんなにビジネス上で憎まれる手段をとろうとも、セガが小売に歓迎されようとも事実は変わらない。金で勝ち負けをつけられるレベルの文化ではなく、人間社会をどう変えるのか選択権を持っちゃったプレーヤーの話になるのですごいよねえ。

時代を振り返る本のその時代に自分が生きてて、実際に体験したことが新しく意味づけされて登場人物の一人だっていう新しい経験でもありました。もうそんな年だよ。
日本だと、ゲームを語る文体ってマニア層に固定化しちゃってるところあるんですが、これはゲームっていう共通の文化体験があった人に広く向いて書かれた本で、本質的に、子供の善の万能の夢である玩具の業界もテーマになっているので、読後感がとても良いものでした。

バービーの大人向けにファッションデザイナー起用したコレクタブルシリーズと、あのヒーマン作った人が同じ人物、にしてセガアメリカ社長っていうのが信じられなくて、アメリカの子供向け業界のサクセスドリームに浸れたのがよかったです。
昔は子供玩具自体が金儲かる業界で、ゲーム業界っていのも始まった当初からビジネスでサクセスの夢が見られたのだなあ・・・
文化を創って金を稼ぐマーケティングっていうビジネスなんで、私ソシャゲは社会悪だと思ってるんだけど、その祖先もしっかりビジネスしてたんだなあと感慨深いものがありました。
ニンテンドーにしてもスプゥラトゥーンなんていういかにもセガ的なストリート文化(ジェットセットラジオ!!!)が今は看板、それにインディーズゲームのUNDERTAILがニンテンドー機からリリースなんて、隔世の感があります。時代・・・。
今、外から守られた壁の中で安全にコントロールされて楽しむ娯楽になったニンテンドーは魔法の王国になりました。壁の外にはなんでも許される無法地帯が無限に広がる。
反逆が許されるほどリアル世界の安全感がなくなったということでもあるし、かつての反逆者が年をとって今は体制になった、つまり親世代になったということでもある。新しい反逆は、ゲームの潮流に生まれるのか、別の場所で生まれるのか、まだまだ時代は続くので、一時代を振り返れて面白かった本でした。



セガわりと好きだからまだまだまだまだ字が書けるんだけど、最近タニタセガと接近し過ぎてて、サターン体重計とツインスティックバーチャロン専用コントローラー)は確実なんで、これセガハードの時代また来るんじゃないの????今は好きなものには金ならいくらでも出してくれる時代だから、いけるんじゃないだろうか。