自画像

もともと、人に説明する文章が上手ではなかったけども、自分で読んでてわけわからないし、うまく書けていない気がする。このうまく書けてないっていうストレスを感じることほっとんどなかったので、今、文章を書くことが億劫です。なんで、拙い文章になるのかわかんない。
躁うつ病の親父から来た手紙のほうがまともな文章書いててねたましい。

老いる自画像の連作や、ネコが崩壊してく絵とか見るうちに、多分このネットに残してるメモもそれに近いと思いました。

モノについて書くことは、モノそれ自体に価値があるから書く動機が少なくてすむ。オタクトークとかそういう発動のときのエネルギーが少なくて済むからしゃべりやすいのかも。
最近はだいぶエネルギーが増えてきたんで自画像を書こう、対象を自分にして文章書こうっていうような気も起きるようになりました。

一つは全部が小さくなる、自分全体のボリュームが減るっていうかんじ。ゲージ制のベルトスクロールのキャラみたいな気分だよ。・・・しかもゲージ減る条件が、時間経過と何のアクションするにもゲージが必要みたいな。回復は一日終わって寝ることだけ。

また一つは、そうやってゲージ制だと思うと、動くための燃料っていうかエネルギーからの連想で、自分を火のように思う時があります。以前は、炉みたいな高出力、高火力の存在だったけど、燃料を灰も残さないくらい高火力。完全に消化するってか、素材の原型とどめない、ある意味素材を無視して、エネルギー変換できてたような。
今は炉が壊れて、裸の火になってる気がする。
火を維持するのに燃料がたくさんいる。燃やすにも、低温の炎で、時間をかけてたくさん灰にして、燃やしきれないし、不完全燃焼で炎の形が常にうつろい、燃やしたものによって炎の色もかわり、燃料少なくなれば小さくなり簡単に消える。けれどもおき火のように、どんなに小さくなってもまた燃え出す気配がある。煙がある限り生きてるでしょう。
実体が、炉であるように思っていたけれども、本当は火が正体だったのかもしれないと思っています。
これから、もっと燃焼効率のよい形になるのか、このまま薄く広がっていく火になるのかわかりません。
でも、今の状態になっていることで、燃やす対象を見る時間があるので、燃やす素材の理解の方法は変わったと思います。


まー
何をいっても、今とにかく意識が薄いので、酒のんで30分くらいしか出力しよう、なんかやろうっていう気力出せる時間がもたないです。あと、会社で酒のむわけにはいかないので、常に炭酸飲料とアイスくってる、前と見た目は変わらないかんじにはなってます。
たぶん。
自分で言うのもなんだけど、今かなり普通の見た目になってると思う。エキセントリックとかファナティックとか以前の私を形容する言葉は、それこそ酒のんで15分間くらいにしか当てはまりません。その状態を自分でやることのよしあしは別にして、そういう人が創作してるっぽい暴力のにおいは、今でも好きです。