抑圧

私が一番恐れていることは、躁鬱病と診断されることだ。
躁鬱病は女に遺伝しない、と医者に言われたけれど、自分の気分に波があることはわかっていて、波が大きいときほど喜びが大きく、エネルギーがあって、そういうときは創作したいなという気分になる。ただしこれまで、私が創作した量はとても少ないし質も伴わないので、気分になるということだけ。
誰でも嬉しい時はあるものかもしれないけれど、2008年から鬱病なので、少し元気になったと感じる時が健常なのか躁なのか判断できない。昔のように元気になりたい、というには年をとってしまって、回復のモデルを過去には求められない。また、ナルコレプシーと診断を受けて以来、失調に備えて常にエネルギーをセーブしていようとしている。肉体的な失調は、時々起きている。
悲しみに沈むことは恐ろしい。同じように大きな喜びに溺れることが恐ろしい。
創作の喜びは何事にも替えられない、個人の喜びだけれども、何かをしようというきっかけの時点でブレーキが働いて、そのまま時間をつぶしてしまい、自分の人生の時間を自分のために使うことができない。自分の考えが、他人に迷惑をかけない限りそれが最重要だと、信じるに足る状態でない。


文学や哲学書の日常ではまずお目にかからない文章も抵抗なく読めるのと同様に、電波文が抵抗なく読めてしまうのも憂鬱になる。Dr,林の相談室の、患者「自分は治療しなくても、命令と共存して幸せです。命令はいい人ですからわかってください。」先生「悪化しています。今すぐ病院に行ってください」も笑っちゃうけど、よくわかるぞい。
2007年以前、私は文章を書くのがものすごく速くて得意だと疑うことがなく、当時の文章を読むと傲慢さも感じるけど正直に巧いレベルと感じることもあるし、ミスはミスともわかる。鬱病以来、文章を書く能力は回復せず、作文にとても時間がかかっている上に、このようにぎこちない普通じゃない文章を書いている。この文章は何度も読み返されている。(追記:この文章は最終的に5時間以上かかった。)


文章に漂う統合失調の気配にも過剰になった。物事から物事への少し距離のある意外な連想(連合弛緩)や、一つの事象から豊かに思いをはせる個人の情動(妄想知覚)を読むのに嫌悪感がある。ファンタジーや外国文学など、一枚ヴェールがあれば楽しめるけれど、日本語の現代ものは受け入れれれない。2007年以前の私が最も得意とする文章のジャンルを今は否定している。が、私の文章で読めるほど面白いところはおそらくその切り捨てたい部分だろう・・・。
事実以外に価値を薄く思うようになって、想像力を貧しくするのだけれど、病気からは離れていられるように思う。それこそ、20年前の私が最も嫌うことだったはずだけれども、想像力への嫌悪を実感として持ってしまってから、特にターニングポイントも無い日々が続いている。


鬱病は人間の能力を変える。これは間違いない。心の問題ではなくフィジカルな問題だ。発症後の日常生活の支障に悩み、『奇跡の脳』という脳科学者が脳溢血になって能力を欠損した自伝を手に取るほど、追い詰められていた。たとえば、3以上の数が数えられなくてお米が炊けない=目盛までいっぱいにするという方法に変えた。そのくらい変わる。
関心が留められない、覚えていられない、過去を思い出せず関連が見いだせない、現実が常に新しく立ち上がって細切れに提示される世界観で数年過ごした。欠損による幼いころへの退化なのかもしれないし、新しい状態に変化していたのかもしれない。どちらにしても、それまでの25年の時間と経験でできた脳の時点に、これから先、戻る、回復する、ということは無いだろう。惜しく思った日々もあるが、案外多くの人がたどる変化なのかもしれない。
ただ、日常生活ですれ違う人々に、このように全く違う能力で世界に属している人が大勢いるんだなということは、実感として思うようになった。

想像力や、創作の力が、逸脱と紙一重だというのはアウトサイダーアートの持つ魅力を見ればわかる。作者は社会に属する力がすごく弱く、そのエネルギーを社会で使うことは無いし、経済とも無縁に福祉で生きる人がほとんどだ。自分が絶対に当事者になることは無い自分の結婚式を描き続ける知的障碍者(※小幡正雄)の絵の連作には、本当に心が動かされた。
躁鬱病にならないよう、自分が創作者になるほどのエネルギーを蓄えず、波のないほうを選ぶ人生を選んでいるといえる。それでも、変調はあるだろうし、乗り切れずに破綻する日もいつか来るだろうと思う。
そのときに、過去を悔いないのはどちらの選択がよいのかわからない。黒白つける傾向はよくない、とこの手の本でよく読むし言われることだが、逃避して放置することは、問題が起きたときには解決に能力の及ばない状態になっているのではという不安と表裏で苦しい。


わかりやすい文章を書こうとすると、躁状態特有っぽい断定の短文の積み重ねになるけど、マニュアル制作者の職業病とも思えるので微妙…英文翻訳前提の語彙と構造の限られた文章を書き続けて引きずられてるよなあ。
ただ、昔書いていた文章のように、長文且つなめらかな意識の流れを読み取れる文章は今は書けてはいないと判断できるし、自分の言わんとすることを詰めて書くと短い文章の積み重ねにしかならない。長い文章で表現できているか、自分の確信が持てない。だから、人に向けて発信する姿勢で文章が書けない。


お金についても、まずは無いと困るという価値観なので、快楽と天秤にかけたときにお金をとることが多い。経済の中で生きることは良いことだし、不可欠だと考えていて、わりと比重は重い。手段であることは忘れたくないけれど、とにかく無いのは困る。
けれどお金がほしくても、給与収入以外の金銭取引をすることは、躁うつ病の作家北杜夫の「悪魔の棲む家」を読んでから自分でやる気は起きない。コメディなんですけどね。躁欝病と経済活動は負の方向に切っても切れない関係で、且つ相容れない。お金を大事に思うほどに病気になることへの恐怖が募る。作り手になることをぼんやりとまだ望むけど、それを行うことは経済生活の破滅への一歩のように思う。
こういったことを笑って話すことができる日が来るんだろうか。シリアスだけがいいとは思えないけど、今は笑えない。