VR

今、きっと転換点にいて、この考えも明日には変わってしまうかもしれないので記録しておきます。
今春にVR展に行って、スマホを通した現実の風景の中にポケモンがいるデモを見ました。見た瞬間、この現実への浸食に拒否反応がありました。ゲームがメタいのは表現が乏しい時代から追及されてきた、古くからの伝統なんですけど、現実の風景の中に見え隠れするポケモンどもは、メタとかそういう次元ではなく、現実となんの距離もなく現実そのものになっていました。
私にとってゲームは、彼岸であって、ある種の理想や、危険や冒険が、此岸とは切り離された場所で行われるものでした。本質としての異世界を、神話のような物語や、現実ではないファンタジックなグラフィックという装飾が強調していました。最初のバーチャロンは衝撃的過ぎて夢の中でもホバー移動してたくらいだったんですけど、このゲームの話の仕掛けとして途中で操作シミュレーションテストから、実機の遠隔操作になったという演出されて、ラストで敵機を破壊した後、今までコントロールしていた実機が宇宙空間に放棄されて漂う様見るんですね。現実に寄せたかと思うと、また夢へと還っていく。現実に価値があり、夢はその影という価値観には、そんな安全距離が好ましかったのです。ゲームをしている間に過ぎ去る現実の時間も惜しい。

これから、夢は現実の人生と等価になり、現実の人生が影になります。星新一の灰色の妖精のように、人が絶滅してしまう種類の快楽かもしれません。
今、古いSFの中にいるんです。スマホの中のポケモンを見るたくさんの人が歩く様は、いくら関係ない人たちにはかまわないといっても、同じ空間にいるのにレイヤーが分かれているような違和感、とてつもない断絶、異様な事件、映像のように見えます。華氏451の耳栓とテレビに区切られた世界でも、ものすごい断絶と書かれていたことが私には、いまいち悪い事とは思えなかったけれど、今回のVRは違う。VRに比べたら、本もテレビも差はなくて、まだこの現実の世界に属する、人間のイメージを必要とするものに思います。
百億の昼と千億の夜の、ユダが統治してた惑星とか、本当に古典SFなVRの脅威を、私は今現実として感じています。
現実のことはそんなに気にかけなくなるかもしれません。同じレイヤーを共有する同士は楽しそうにも見えます。それが普通になるかもしれません。

>追記
現実とVRで、現実の場所が墓地とかモニュメントなのに、ポケモンが普通にいて、問題になってるニュース見ました。出会うことがないはずだったレイヤーの重なりで興味深いことです。VRが現実と対立する。今はまだこういうバランスなのかもしれない。