『服従』ミシェル・ウェルベック

最近名前だけはよく聞くので読みました。装丁がとても美しい。
少し未来のフランスの内線前夜と社会の変容を書いた本。

この本の位置づけ迷う。起承転結ストーリーにワクワクしたりミステリじゃないしキャラ立ってたりしないんで、エンタメじゃないです。主人公はユイスマンスを研究する大学教授で、その論調も規範も文学の態度そのものなので、この本は文学を読む人にしか受け入れられないような古典的な私小説のパロディじみた、軽蔑を持った矮小な人間関係と情事からスタートする。文学読みにとっては、こういうのああ文学だよねっていう予定調和が、政治に崩されていく。

政治についての話がぼく自身の人生に何らかの役割を果たすことがありえるということにぼくは当惑し、ぞっとしない気分だった。(110p)

現代のEUキリスト教圏ということ、目に見えてるのに意識してませんでした。キリスト圏であることがイスラムとの対立によって過熱して行き、現代的な価値とでもいうべき男女同権や家庭からの解放といったものが、過去の価値観に正統に逆戻りしていく。それはキリスト教圏もイスラム圏もなく、宗教と家庭の小さな人生を送る社会に戻っていくこと。現代が失った個人の幸せや満足はあるかもしれません。中盤、そうやって現代的に失われた家族である離婚した母親の孤独死の通知、しかし反動のように書かれる父親が亡くなったのちに知らされた楽しそうな充実した晩年など、文学テクニックが直喩に比喩に、露骨に政治状況を表現することに使われるので、これは文学じゃあないのかもしれない。
文学の中で描かれる女性、大学教授のセックス相手の女学生や娼婦たちの像が、宗教下の女と対して変わらないか、そのほうが都合のよい女であるようにごく自然な性の欲望として欺瞞を持たせる含みありつつ書かれるとか、ものすごく自覚的にコントロールされた筆なんで、あからさま過ぎにも感じなくもない。でも一般的な小説ってことではなく、話題が文学なんでこれ文学かもなあ。

ブルジョア男が幸福になれる世界なので、私がそこそこお金ある男になれるんだったら、こういう世界来てほしいよ。

オースターの『闇の中の男』もファンタジーと枠小説の距離を保とうとしながら現代の戦争を書いた小説でした。こういった本が書かれる時代を不穏に感じますが、そのうち読めなくなるときがくるんでしょうか。